僕の両手に残るもの

       BY こたん様

 

5

 

 

センター長の様子を伺う為に、時々僕は仕事の後彼を誘った。悠理とも連絡が途絶えたままだった。我々の飲み始めはいつも仕事の話が多く、そう、彼の飲み方は一杯目で理性を持ち、二杯目でまともな考えをし、三杯目で普通を装い始める。やがて杯を重ねる毎に本能が伴い始める。そして気付くと、彼は現実から逃れたがっていた。だからと言って特別な話はしなかった。しかし彼の身体がアルコールに占められるにつれ、彼は記憶の断片をかき集めて、自分にしか分らない、まるで記号のような言葉を口にした。

そうしたいくつかの夜を彼と過ごした次の日、事務所の彼はそれを撤回するかのように振舞った。自分がまともで正気な人間であることを認められるよう、彼は会社に、社会に、政治に対して問題を提議し、異議を申し立てた。そんな姿を見るたび、僕は切なくなった。

 

そんな彼とは逆に、事務の女の子は忠実に仕事をこなしていた。彼女はやっと他人という我々(例え僕と彼だけにしろ)に、自分という個人が認められたことに生き甲斐を感じていた。僕も彼も、個人の意見を尊重した。くだらない事でも三人で相談しあった。そうして我々は、成文律、不文律を作っていった。彼女は自分の会社でのポストを必死にこなしていた。その必死が、彼女の生きている意味なのかもしれない。

 

 

その日僕は、ある大手デパートのラジオCM十五秒コメントを考えたり、顧客の資料整理をして、ほとんど事務所にこもっていた。事務の女の子はもちろん、静かに机に向かっている。僕の考えたコメントをパソコンで清書してくれたり、書類校正の手伝いをしてくれた。そしてセンター長といえば、ほとんど事務所にいることはなかった。朝、僕と簡単なその日の打ち合わせをした後、すぐ営業に外へ出た。

時々彼から電話での連絡がある程度で、事務所に戻る事はなかった。僕は午後二時からテレビCMの編集があっただけで、外出の予定は無かった。

 

センター長が夕方事務所に戻るなり、ビールを飲みに行こう、と言った。

「えっ?」

と僕と事務の女の子は聞き返した。そして僕らは顔を見合わせ、飼い主の言っている意味が分らない犬のように首をかしげた。すでに九月も下旬にさしかかっていたが、初夏のような陽気の一日で、夕方になっても暖かく、窓から入ってくる微風はこの上なく気持ちが良かった。

「えっ?」

我々三人は顔を合わせ微笑した。全て彼の冗談だと思い、それはそのままで数分が過ぎた。彼女はすっと席を立ち、洗い物と簡単な掃除をし始めた。もうそんな時間になっていたのだ。そしていつもそうするように、彼女はまるで帰ることが罪でもあるかのように、いかにも申し訳なさそうに言った。

「あの、それでは、私は帰ります。」

「えぇ、帰るの?ビール飲みに行こうよ。ねぇ、少し待ってよ。」

「はぁ、」

彼に言われると、諦めたようにペタンとまた自分の席についた。そしてもう一度僕と顔を見合わせ、もうしょうがない、と言う目で僕に微笑した。

我々は開店間もないイタリア料理店に行く事にした。薄暗いその店で、質の割りにちょっと値段が合わないピザとスパゲッティ、小魚のフライをつまみにビールを飲んだ。

彼女が何とか一杯、時間をかけて飲み終わる頃、彼は五杯は飲んでいた。やがて彼はいつものように、断片的にかき集めた記号を口ずさみ始めた。

 

彼の酔い歩く後姿は、どうしようもなく悲しく、救いようがなかった。昔何かの映画で、その先は此の岸の淵にも関わらず、それに気付かぬ振りをしながら、喜び歩き続ける男を見た事がある。彼はそれそのものだった。もしもその先が崖で、僕と彼女が共犯に彼の背中を押したとしたら、彼はきっと微笑しながら落ちて行くだろう。やっと本来そこにいるべき自分になれると。その場所はもう喜びも悲しみも苦しみも、肉体的、精神的痛みも快楽も何も無いかも知れない。それでも彼は突き進むだろう。彼が求めている場所は、やがて我々も到着する場所は、きっとそこなのだろう。彼は我々を振り払うようにその場所へ向かって行った。ふと事務の女の子の方を見ると、彼女は何かに絶望したように、それはまるで自分の不幸を目の当たりにしたように、悲しい瞳で彼を見送っていた。

 

僕は思う。彼は確実に彼の岸へ向かっていると。

 

 

部屋に戻ると、悠理がリビングのソファに両膝を抱えて座っていた。

「来てたんですか。」

彼女は僕を見もせずに、じっと自分の形の良い膝を見つめていた。

「今日、約束なんてしていなかったですよね。」

「約束無しでは、お前に会いに来ては行けないのか?」

「そうじゃないですよ。でも連絡くれれば待ちぼうけを食らわなくていいでしょう。それに今夜は、急に飲み会が入ったんです。」

「ふうん。」

「どうしたんです?」

彼女はまだ自分の膝を見つめていた。

「電気を消して。」

僕は電気を消して、彼女の向かい側に座った。彼女は膝から目を離し、僕を見ているようだった。

「あたしとその・・・結婚したいと考えた事、ある?」

僕は彼女を見つめた。

「あたしと生活したいと思う?」

「どうした?」

「答えて。」

僕は深いため息をついた。疲れと酔いがひどく眠気を誘った。今の僕にはそういう議論はしたくなかった。しかし彼女の様子から、この議論を避けると厄介なことになりそうだ。

「僕はあなたをとても気に入っています。結婚してもいいと思ってます。あなたさえ良かったら。でもこの気持ちのままで、いつまでもいられる自信はありません。これから先、何かあるかも知れない。何も無いかも知れない。僕には分らない。あなたにも分らない。結婚だけが全てでは無いと思います。今、あなた以外に付き合っている女性がいるのではありません。人間は常ではないと思います。僕は・・・」

悲しげな微笑が、震える空気に伝わってきた。彼女は泣いているのだ。僕も悲しくなった。でも正直な気持ちだった。

「愛しているとか、結婚しようと言うのは簡単ですけれど、貫くことは難しい。それに僕達の年代では、愛していると思っているだけで、実はそうでは無いんです。形而下の愛情は形而上な愛情を隠してしまうんです。そうではないと他人は言うかも知れない。あなたも言うかも知れない。でも僕はそうは思わない。思えない。肉体的なことが伴う以上、百パーセント愛しているとは思えない。僕はあなたを今、大切に想うからこそいい加減なことを口にしたくはないんです。」

「何、それ・・・わけ、分んないよ・・・」

彼女の嗚咽だけが暗い部屋に響いた。

 

 

6

 

 

センター長の症状は日増しに悪化して行った。アルコールの匂いを漂わせて出勤してきたり、仕事中にどこかで飲酒しているようだった。夕方五時ともなると事務所の小さな冷蔵庫を震える手で開ける事も習慣となっていた。

 

そんな時、彼はアルコールが原因で倒れた。死には至らなかったが、仕事を続けることは精神的に無理だった。僕は父に事情を話し、退院後、彼に合った療養所を紹介してもらうことになった。

 

希望を持ち、生きようとする者が絶たれ、絶望し、死を選ぶ者に光を与えられる。

僕には理解できなかった。

 

数ヵ月後、僕はもう一度彼と不確実な世界で再会する事になる。

 

 

 

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