彼女の小さな部屋

 BY こたん様

前編 

 

朝夕はすっかり寒さを覚える九月の下旬、あたしと清四郎は東北のある温泉地に訪れた。

当初の予定は、以前清四郎が七ヶ月だけ広告代理店地方営業所に派遣された時の上司を見舞う・・・でもあたしの目的は、ゆっくり温泉につかり、ご馳走をたらふく食べ、のんびりゴロゴロ二泊三日を楽しむつもりだった。

 

東京から新幹線で二時間弱、ローカル線に何回か乗り換える。

 

降り立った駅は温泉地とだけあって観光客で賑わっていた。

 

「空気がうんまい!」

「ですね。それに天候が穏やかで旅行には快適です」

 

澄んだ空気、新秋の青く高い空、そして温泉地らしく僅かに漂う硫黄の匂い。

 

「もう少しすれば紅葉が楽しめます」

 

あたし達は駅前に一軒だけある蕎麦屋に寄り、腰のある十割蕎麦を食べた。すでにあたしは新幹線で駅弁とお菓子を胃に入れている。でも、食事は食事である。

 

「あれはおやつだったのか?」

 

トロリとした蕎麦湯を飲みながら、元上司が入所している施設までのバス時間や旅館までの道のりを話していた時、

 

「おや、これは何ですか?」

 

とチラシらしき物を清四郎は手に取った。

プラスティックのメニュー表と調味料の間に立てかけてある。

 

「ん、さっきからあったかな?」

「気付きませんでしたね」

 

そのチラシによると、あたし達が行く旅館のもっと奥の方に秘湯があるらしい。

旅館からバスで三十分位。

 

「行きたーい。秘湯だって。効能は何かな?」

「じゃ、施設訪問後行ってみますか。たまには一緒に入るのも悪くないでしょう」

 

あたしは清四郎を睨みつけ、割り箸を投げつけた。 

 

 

バス停を降りると昔がながらのたたずまいを見せる芽葺きや杉皮葺きの建物が、山間に何件か離れてひっそりと建っている。

空気がひんやりしていて硫黄の匂いもきつくなる。

 

「秘湯情緒に溢れてますな」

 

あたし達は澄んだ空気を肺いっぱい吸い込み、旅館までの数分を歩き出した。

山の湯治場といったひなびた風情を残す旅館。

 

「けっこう湯治客がいるんだ」

「そうですね。ここの湯は万病に効くことから奇跡とまで呼ばれて、湯治客が絶えないようです。癌、リュウマチ、糖尿病、皮膚病などを患っている者や医者に見放された患者がここに長い期間滞在して温泉治療をするんです」

「ふうん・・・」

「すぐに暗くなってしまいます。チェックインした後、施設に向かいましょう。その後は秘湯に行く。あなたも秘湯に頭までつかれば、治らないものも治るかも知れません」

「どういう意味だよ!」

 

あたしはかわされるであろう蹴りを清四郎に向けた。

 

山間はやはり肌寒く、用意してきたジャケットを羽織ってもなお寒さを感じる。あたしは清四郎の腕にしがみついた。

 

「さみぃ」

「思っていた以上に肌寒いですね。日が暮れるのも早いですから、早くバスが来て欲しいものです」

「後何分で来る?」

 

清四郎は何度目かの時刻表確認をする。

 

「後十分位です。この辺は首都圏と違って本数も少ないですし、時間も正確かどうか・・・」

 

でも、清四郎の予想は外れてバスは正確にやってきた。時刻は一時五十ニ分。

大丈夫、日が暮れる前には旅館に帰ってこれる・・・

あたしはちょっとだけ不安を感じた。

 

シュウッという音をたててバスは停まり、後部の自動ドアがガタンと開いた。

あたしは清四郎の黒のジャケットを掴み、ステップを上がった。二人掛けの座席が通路を挟んで二列ある造りのバスで、若干空いていた。あたし達はでも、後部座席に向かった。あたしは清四郎の広い背中に張付くように歩いた。こんなに外は寒いのに、エアコンが効いているようにひんやりとした空気が不思議だった。

 

「エアコン、効きすぎていないか?」

「そうですね。でも外がすでに肌寒いというのに、エアコンなんて付けますかね?」

 

あたしは自分の布のバッグを抱え込んだ。清四郎は顔を動かさず、目だけをキョロキョロさせていた。

 

「何?何?何か変?」

「おかしいと思いませんか?僕達は施設に向かっているんですよ。彼等もそこに行くとしては、雰囲気がちょっと妙ですね」

「ん、そう、そうかな・・・」

 

それきり清四郎は何も応えなかった。窓の外を眺めたり、バスの壁に並んである広告を見たり、乗客の後姿を観察したりしている。

あたしはだんだん不安になり、清四郎の腕を取った。

 

「清四郎・・・」

 

清四郎はにこりとあたしの顔を見、その手に自分の手を重ねた。

 

「大丈夫ですよ。皆足がありますから」

「ば、ばか。当り前だろ。変なこと言うな、鳥肌が立つじゃんか。ただでさえ寒いのに」

 

あたしは不安を紛らわす為に壁の広告に目をやった。どれも地元のものばかりで、知ってる名前なんてもちろん無かった。

バスも随分古ぼけていて、シートのあちらこちらにジュースのようなシミやら、煙草の灰によって焼け焦げた穴があった。それらはバスの年齢を表しているのかも知れない。

山道のせいで、時々ガタンと大きく揺れる事があり、年老いたバスは悲鳴を上げていた。

 

「ねぇ、バス、間違ってないよね?」

「間違いようがありません。路線は施設に向かう一本だけなのですから」

「そっか・・・」

 

バスは停留所に停まる事無くどんどん山道を進んでいく。

 

車内アナウンスはどうなっているんだ?

 

緩やかな斜面を上っているのだけど、窓の外は標高の高い地点を走っている様に思える。

時々山と山の間から、高さを象徴するような暗闇が覗いた。そのためか、キーンと言う耳鳴りが絶えずあたしの耳を塞いだ。

バスはしゃがれた悲鳴をいっそう高くしながら、スピードをどんどん上げていく。

窓の外をじっと見る事が出来ない程、目まぐるしく景色が変わる。

 

「清四郎!」

 

あたしは小声で叫んだ。

清四郎もすでに察しているように立ち上がると、あたしの方に屈みこんで言った。

 

「ちょっとルートを確認してきますよ」

「待ってよ!」

 

あたしの不安一杯の声も届かず、清四郎はずんずん前へと進んで行く。

あたしは恐怖でぎゅっと眼を瞑り、バッグを両手で更に強く抱え込んだ。耳鳴りがいっそう強く耳を塞ぐ。

 

やっぱり駄目!!

 

いきなり立ち上がり、清四郎の後を追う。

運転席の後ろまで、清四郎の黒いジャケットだけを見つめていた。

清四郎は乗客の方を振り返ると、あっと声を上げた。あたしもつられて振り向き、愕然とする。

そこには奇妙な光景があった。

 

乗客の殆どが老人だった。皆それぞれ礼服を着込んでじっと座っている。所々に若い男女や小さな子供も、同じように清楚な服を着て腰掛けていた。中には会話している者もいた。よく見ると、顔は完全に向き合わす事無く、目と口だけを僅かに動かして話しているのだ。でも話し声は聞こえない。

そして、それぞれの顔に表情というものが無い。

更に不気味だったのは、皆誰も、あたし達の存在に気付いていないようだった。普通だったら、こうして前に立ち乗客をじろじろ見ている者がいるなら、不審を抱いてもおかしくないのに。

 

「せ、清四郎・・・」

 

清四郎はあたしの腕を掴むと、後部座席へ向かう。

 

「席に戻りましょう。施設に着いたらすぐ降りるんですよ」

 

初めて聞こえる車内アナウンスにブザーを押すと、程なくしてバスは、大きくため息をつきながら停まった。バスも疲れきっているのだ。

あたし達はバッグを引っ掴み、一度も振り向かない運転手の背を見ながら飛び出すようにバスを降りた。

髪の毛はもちろん、身体中の産毛が総毛立っているのが分った。

あたし達が施設前で降りた今も、彼等は無音で話し続けているに違いない。

再びバスは悲鳴を上げ出発した。斜面を上り、カーブを切って消えて行った。

 

「ひ、ひぃぃ・・・あれはいったい・・・」

 

流石の清四郎も青い顔をしている。

 

「・・・彼等はいったい、何処から来て何処へ行くのだろう・・・あれは・・・」

 

清四郎が何か言いかけた時、突然空が不気味な雲に覆われ、一瞬のうちに大雨が降り出した。清四郎はあたしの腕を掴み施設に向かって走り出した。

咽喉がからからで声すら出せない。

 

早く帰りたい!!

 

 

両側に生い茂った木々が立ち並んでいる道路から、少し奥まった場所にその施設はあった。

シックな、感じの良い施設だった。

今でこそ雨で赤黒くなっているが、きっと晴れた日にはこの煉瓦造り風の壁は、ちょっとした別荘を思わせるのであろう。

古い施設だったけど、古さが良く似合っていた。庭らしき庭はなかったけど、こんな山奥に庭なんて特別な枠は必要ないのかも知れない。

 

施設の重々しいドアの呼び鈴を、清四郎と顔を見合わせながら何度か鳴らした。

暫くすると、がちゃりと鍵が外れる音がした。

あたしは息を呑んだ。

 

「はい」

 

と言う声と共に、その重々しいドアが開いた。

清四郎は僅かに開いたドアに顔を寄せると、

 

「すみません。先日面会の許可を頂いた菊正宗ですが」

 

中から黒いワンピースを着た小柄な中年女性が出てきた。

 

「存じ上げております。どうぞ中へ」

 

ロビーで十五分位待つ間、女性に渡されたタオルで髪や顔を拭いた。ジャケットを脱ぐと服は濡れていない。足元がちょっと気になるけど、スリッパに履き替え、暖かな施設内がその内それらを乾かしてくれる。

しばらくすると担当医が出て来て、清四郎を応接室に連れて行った。あたしはそのまま、さほど広くないロビーのソファに残された。

施設内は外壁と違って病院の壁そのものだった。綺麗に清掃されてはいるものの、白い壁にはその古さが現れていた。

施設中に、雨音とその匂いが染み込んでいる。身体はまだ寒さを覚え、手足の指先が冷たい。

 

清四郎、早く戻らないかな・・・

でも・・・帰りのバス、乗りたくないな。タクシー呼ぼうかな・・・

 

あたしは多少の恐怖心と暇を持て余し、テレビのスウィッチを入れた。リモコンが見当たらないから、そのままの画面を見ていた。

テレビは、季節はずれの名も知らない花畑を延々と映していた。知らないクラシック音楽と共に。

 

「悠理」

 

テレビから目を離すと、清四郎が現実的な微笑をあたしに向けて立っていた。あたしはホッとし、何故か脱力感を覚えた。

 

「今から食堂で面会をしますよ。今度はあなたも一緒に、どうぞ」

 

あたしは清四郎の腕を取り、自分のそれに絡めた。清四郎はあたいを見ると優しく笑いかけ、大丈夫、と口を動かした。それだけで本当に安心した。

清四郎が言うから、大丈夫。

 

 

施設の食堂はロビーと同じ、広くはないけれど、さっぱりしていて清潔だった。カウンターもテーブルも椅子も古い物だったけれど、全て綺麗に磨き上げていた。それは施設管理者を印象付けるものだった。

大きな窓、続くバルコニーが唯一、施設の息苦しさから開放しているようにあたしは思えた。今でこそ雨が映っているけれど、晴れた日はきっと美しい自然を映すに違いない。

長方形のテーブルの上には湯気の上がったレモネード、バタークッキーが数枚添えられてある。あたしと清四郎は隣り合って座った。

レモネードは冷えた手足を温め、その糖分は身体の隅々まで染み込んで行く。

清四郎の上司だった男は・・・あたしは初めて会うその男を観察した。

その顔は蒼白く、精気ある者ではない。鋭かったであろう眼光も正気を失っている。

あたしでも分る。まともではないのだ。

 

「ご無沙汰しております。元気そうですね。先程担当医から症状や、こちらでのあなたの生活ぶりを聞いてきました。順調のようですね」

「ええ、かなり落ち着いた生活を送っていますよ。アルコールが飲めないのが最初はかなりきつかったですけど・・・もう、平気です」

 

男はちょっと考えるように俯いた。

 

「菊正宗君のお父さんから紹介を頂いた病院ではなく、こちらにした事・・・申し訳なく思ってますよ」

「とんでもない。こちらの施設でも充分な治療が受けられます。ちょっと交通が不便ですけどね」

 

二人は微笑を交わした。男は疲れきっていた。

それから彼等は、彼等がいた広告代理店の話を始めた。新しい営業所は無事に落成された事。新しく赴任したセンター長や営業マンたちも頑張って成績を上げている事。事務の女の子も契約を更新しながらセンターを裏で支えている事・・・

 

「良かった・・・会社の事は、本当に気にかかっていたんです・・・私がいなくても、大丈夫ですね」

「あなたが地盤を固めたから、今があるんです」

「ありがとう、菊正宗君。君の協力があってこそだよ。ありがとうございます」

 

男は深々と頭をテーブルに付くほど下げた。

 

やがて食堂の窓に暖かな光が差し込んだ。

 

「雨が上がったんだ」

 

あたしはホッとして清四郎を見た。清四郎の目にも安堵の光があった。

 

「そろそろ時間ですね。バスの時刻表を確認しなくては」

 

男はちょっと片手をあげ、清四郎を制した。

 

「その前に君達に見て頂きたいものがあるんです」

 

見て欲しいもの?

 

男の言葉は優しかったけど、断る事を許さない強さがあった。今までと違って・・・

男はすっと立ち上がると、何も言わずにさっさと歩き出した。清四郎はあたしを見て頷くと男に続いた。あたしも従わなくてはいけないのだ。頭は反抗しても、身体は二人を追った。

 

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