剣菱豊作氏のありふれた日常  前編

 

                                      by ましまろさま

 

 

 秋の日の夕暮れ、その国際空港に偶然居合わせた人々は息を潜めるようにして

1人の人物に注目した。

 長身で頑健な体躯から漂ってくる威圧感、存在感。

 何故だか自然と目が追ってしまうのだ。

 サングラスに隠れた顔に見覚えはないが、もしかしたら有名人かもしれない。

 今後の話のネタに、人々は恐怖感を押し殺しその人物を脳裏に焼き付けた。

 

 

 同じころ剣菱悠理君は自宅で恒例の試験勉強に取り組んでいた。

 今回は鬼教官が兄 豊作と資産運用会議参加のため、野梨子が悠理の家庭教師

役を買って出ていた。

 

「悠理、全く進んでませんわよ?」

「だ〜って、分んないんだもん!なあ、休憩しておやつ食っていい?」

「さっきも同じことを言って食べたばかりでしょ?さっさと解く!」

 

(と、言う会話が延々と続くものと覚悟してましたのに意外ですわ。)

 

 驚くことに悠理は清四郎が用意したプリントに黙々と取り組んでいる。

 

(恋って人を変えますのね。)

 

 先日、仲間の力を借りて清四郎に告白をし無事ゲットした悠理。

 清四郎にとっては棚ボタの告白だったが・・・。

 今のところ2人は美童や可憐の予想を裏切り、清い交際を続けている。

 と、言うより相変わらず孫悟空とお釈迦様の関係のままだ。

 賭けに勝った野梨子だが、彼女の直感が裏に何かあると訴えていた。

 

(悠理が大切だから手を出さないって感じじゃないですわね。)

 

 前回の婚約騒動から、剣菱の事業に関わっていた清四郎。

 2人の関係が新たになった今、更に時間を取られるようになっていた。

 悠理とゆっくり過ごせないのにも関わらず、清四郎は何だか楽しそうである。

 

(きっと悠理の恋心を煽るため、ワザと放置しているに決まってますわ。)

 

 性格の悪い男が作ったプリントを健気に頑張る悠理に目頭が熱くなりそうだ。

 

(清四郎も同じ思いを味わえばよろしいのに。)

 

 野梨子は不満をぶつけるかのように大きく煎餅を噛み割った。

 

 

 

 

 

 幼馴染の不幸を願う野梨子の耳に内線の電子音が聞こえてきた。

 

「嬢ちゃま、お客様ですぞ。お名前がモル・・・あっ!これ!今、案内を!」

 

 五代の声が途中から悲鳴に変わる。

 

「じい?・・・もる?誰だあ?」

「何かありましたの?」

 

 扉の外が騒がしくなったかと思うと、蝶番が壊れるかの勢いで開いた。

 

「勝負しな!菊正宗清四郎!!」

「「 !!!!! 」」

 

 美童がいれば失神しただろうモルダビアの登場に硬直する2人。

 戦う気満々で構えをとるモルダビアに対し、悠理は早くも戦意喪失だ。

 

「・・・いないのかい?ここだと聞いてきたんだが。」

 

 構えを解かぬまま2人に問いかける。

 

「い・・ませんわ。」

「そっ、そうだじょ!」

 

 この答えにモルダビアのオーラが一段と燃え上がったように見えた。

 

「そうかい。じゃ、先にお前と勝負をつけようか!!」

「ひええ〜!冗談じゃないじょ!!」

 

 広い悠理の部屋で壮絶な追いかけっこが始まった。

 モルダビアの蹴りや突きをかわすのが精一杯で部屋が荒れるのには構って  

られない悠理。

 調度品が倒れ、リネン類が散乱し、障害物競争でもしているかのようだ。

 

「このガキ!逃げずに勝負しな!!」

「来るな!来るな!来るな〜!」

 

 悠理はとっさに手に触れたものを投げつけた。

 視界を塞いだものを払いのけようとしたモルダビアの動きが突然止まる。

 

「・・・これは・・・。」

「「 ????? 」」

 

「何だい?!これは!!」

 

 プルプル震える手には 悠理が以前とった0点のテスト用紙。

 

 

 

 

 

「それからどういう展開でモルダビアが悠理ん家に滞在する事になったんだ?」

「・・・思い出したくもありませんよ。」

 

 それは悪夢と言うより笑えない漫画のようだった。

 剣菱邸に帰り着くとモルダビアが悠理の部屋で暴れているのを知らされた。

 急いで救出に向かった清四郎が見たものは、荒れ果てた部屋の中央に仁王立ち

しロシア語で説教するモルダビア。その前で訳が分からず固まっている悠理。

 

(何でロシア語?)  

 

 唖然とする清四郎の後ろから妹を心配した豊作が声をかける。

 

「悠・・理?大丈夫かい?」

「兄ちゃん?兄〜ちゃ〜ん!!」

 

 あっさり清四郎をスルーし、唯一理解できる言語を発した豊作に飛びつく。

 

「お待ち!まだ話は終わってないよ!」

 

 豊作の背後に逃げ込んだ悠理にモルダビアの魔手が伸び・・・

 

「「うわっ!」」

 

 手刀は空を切り、豊作のメガネを弾き飛ばした。

 

「ひえっ!大丈夫?兄ちゃん!」

 

 モルダビアの爪でも当ったのか豊作のこめかみに血がにじみだした。

 この時少しでも心に余裕を持っていれば、呆然として動けないように見える 

豊作の目に何かを見つけることができただろう。

 兄の負傷に恐怖を忘れ猛然と掴みかかろうとした悠理を清四郎が羽交い絞めに

する。

 

「あにすんだよ、清四郎!1発殴らせろ!!」

「ちょっと待って下さい。何だか様子が変ですよ。」

「???」

 

 モルダビアと豊作が見つめあっている。いや、正確にはモルダビアが一方的に

熱い視線を送り、豊作が固まっている。

 

(まさかと思いますけど、この状況は・・・)

(嘘でしょう?豊作さんもタイプなんですの?)

 

「すまなかったねえ。詫びは後でゆっくりしてあげるからね。」

 

 豊作に眼鏡を掛けてやりながら、生肉を前にした猛獣の微笑み。

 その微笑みを今度は悠理に向ける。

 

「今は長期休暇中でね。しばらくの間、私がお前の勉強を見てやるよ」

「いっ?」

「ご心配なく、悠理は僕が面倒見ますから。」

「おや。居たんだね?自分の事を心配してな。今回こそ勝負をつけるよ!」

「お尚の許可があれば、いつでもお相手しますよ。」

「清四郎ちゃんと試合?大変だね?あたいは邪魔しないよ?頑張ってね?」

 

 

 

「気の毒〜。兄妹揃って興味を持たれちゃったんだあ。」

「分んねえな。断れば済むことだろ?」

「・・・誰がおばさんの決定に逆らえると言うんです?」

 

 

 

「あたい馬鹿だもん。絶対呆れちゃうよ?」

 

 何とかモルダビアから逃げようとする悠理に突き刺さったひと言。

 

「お前の馬鹿は、自分に馬鹿だと暗示をかけ可能性を潰しているところさ。」

「えっ!?そうなのか?!!」

「その通りです!私の娘ですもの。馬鹿なはずありません!」

「かあちゃん!」

「悠理は貴女にお任せします!皆さんもよろしいわね?」

 

 突然の登場した剣菱夫人はそれだけを言うと悠々と去って行った。

 もう、誰も何も言えなかった。

 

 

 

「叔母さんも悠理もその気になっちゃったんだあ。」

「相変わらず単純な奴だな。しかしモルダビアは一体どうしたんだろうな?」

「ええ。考えたんですが一種の燃え尽き症候群ではないかと。」

 

 前回、休暇中にも関わらず警護の任務を引き受けざるを得なかった彼女。

助かったとはいえ親代りに育てた妹の誘拐事件の最中だ、心中は想像を絶する。

ペレストロイカ以降変化を続ける国家、成長した妹、パズルはそう難しくない。

 

「女の幸せを考え始めたってこと?」

「美童、それってセクハラ発言だぞ。幸せの形は人其々だろうが。」

「うっ、でも何か変化を求めて日本に来たのは間違いじゃないよね?」

「さあ、どうなりますか。お手並み拝見といきましょうかね。」

 

 余裕の発言をしていた清四郎だったが、しだいに表情が険しくなっていた。

日々多忙を極める中で悠理と過ごせる時間は貴重だったのにモルダビアの登場で

その時間が更に削られている。野梨子が願った通りミイラ取りがミイラ状態。

 一方、悠理は会えなくても一向に平気そうである、挙句の果て

 

「あたい、褒めれば伸びる子だったみたい。」

 

 と、スパルタ式を用いた清四郎を無意識に全否定。

 モルダビアがどう悠理を褒めているのか謎だが実際効果は上がっていた。

 思惑とは違う方向に展開している状況を止める術はない。

 悠理という栄養素がいかに不可欠かということを思い知らされただけである。

 

 

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