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 どうしてあんなこと言っちゃったんだろう。


 悠理はベッドの上で寝返りを打った。
 七夕の夜は更け──うつらうつらしているうちに朝が来た。
 朝ぼらけの白々とした明かりがレースのカーテンから漏れてきて、一条の光となって部屋に差し込んでいる。その光は徐々に力を増してきて、薄ぼんやりとした部屋の中を照らし出した。


 せっかく野梨子が訊いてくれたのに。


 外で鳥が鳴いている。雀や椋鳥の鳴き声。昔は、それに張り合うようにアケミとサユリの時の声が聞こえてきたものだった。タマやフクは、悠理の足下でまだ丸まったまま眠っている。足の裏に伝わってくる、確かな温もり。


 また、清四郎は何もいわずにロンドンに行っちゃうつもりなんだろう。


 ドアの外から、朝の仕事を始めるメイドたちのかすかな声が聞こえてくる。かちり、と音がして、クローゼットの上に置いた目覚まし時計が6時を示した。


 あたいはまた、清四郎の帰りを待つしかないのかな。


 ベッドに仰向けになって、ふうとため息をつく。一人きりの朝を迎える5年間──また同じ朝がこれからも繰り返されるのだろうか。


 それにしてもあいつ、ロンドンに戻る飛行機の時間くらい、教えてくれたっていいじゃんか。


 清四郎が乗る飛行機は午前中に発つ。どこの航空会社なのかも教えてくれなかった。短い滞在期間に驚いた仲間に、清四郎は素っ気なく「見送りは結構です」と、5年前と同じ言葉を悠理たちに告げたのだった。
 相変わらず冷たい野郎だぜと、魅録はぼやいた。可憐と美童は淋しいことをいうとため息を零しながら言い、野梨子は冷ややかな目で清四郎を見返しただけだった。
 悠理は落胆を必死に隠しながら、「そっか、身体に気をつけてがんばれよな」と言うだけで精一杯で……そして清四郎も、その言葉にただうなずいただけだった。


 また、ちゃんと別れることができなかったな。


 すぱっと思い切れない自分がもどかしい。でも、あたいも連れてってと、清四郎の腕に縋りつけない自分のプライドにも腹が立つ。
 くしゃくしゃと髪をかきむしり、悠理はまた寝返りを打った。ぼすん、と羽根枕に顔を埋めてぎゅっと押しつけた。


 このまま、枕で窒息できたら楽になるかも──


 ふ、と心に影が差す。そうしたら、清四郎は死んでしまった悠理の枕辺で、泣きながら許しを請うかもしれない。でもその言葉は、もう悠理には届かない。これから先一生、清四郎は悠理への後悔に沈んで生きてゆく。


 これが、あたいの「フクシュウ」。


 悪魔の囁きだった。目が眩むような甘い言葉。
 清四郎の泣き顔を想像してみる。今まで一度も見たことのない顔。いつもすましているその顔を涙でくしゃくしゃにして、あたいの名を何度も呼びながら、冷たくなったあたいの身体に縋りついている。
 胸の奥に熱いものがこみ上げてくる。その時きっと、清四郎は初めてあたいだけのものになる──
 その瞬間、目に見えぬ手が悠理の心に伸びてきて、一気に現実に引き戻された。
 ベッドサイドに置いた携帯メールのお知らせ音が鳴っている。
「……なんだよぉ、こんなに朝早く」
 いやいや枕から顔をあげてメールボタンを押すと、送信者の名が表示された。
 清四郎、と。
「え……なんで?」
 悠理は携帯を取り落としながらも、慌てて本文を開く。
「悠理、起きてますか? 起きているなら、外に出てきて欲しい」
 短いメール。用件のみの。タイトルさえない。それでも悠理はタマフクを蹴飛ばしながらベッドから飛び降りた。少し前、頭の中にわき上がった瞑い(くらい)考えも、あっというまに吹き飛んでいった。
 床に投げてあったTシャツとショートパンツという身軽な恰好に着替えて、部屋を飛び出す。
 そして清四郎は、剣菱邸の門の前いた。
 チェックのコットンシャツにジーンズという恰好で、昇ったばかりの爽やかな太陽の下、やってきた悠理に向けて軽く手を挙げた。その足下には、鉢植えの朝顔が置かれている。
「どうしたんだよ、清四郎。こんなに朝早く」
 大気は太陽の熱を含む前、初夏のように涼やかな風が吹いている。悠理に向けてくる清四郎の顔が、朝日のようにまばゆくて、まっすぐに見られない。
「悠理、まずは朝の挨拶でしょう」
 会うなり、清四郎の厳しいチェックが入る。悠理は幾分照れくささを感じながら、「あー……おはよ」ともごもごと口の中で呟いた。
「おはよう」清四郎は満足そうにうなずいた。
「お前のことだから、もう起きていると思ってましたよ」
「清四郎こそ、早起きだな。まだ6時を回ったばっかだぞ?」
「短い滞在期間ですのでね、時差ボケが治らないんですよ」
 肩をすくめる清四郎に、悠理はハハハと豪快に笑ったが、すぐに現実に気づいた。
 そうだった、清四郎は今日ロンドンに戻ってしまう。たった三日間。時差ボケが治らないまま、またロンドンでの仕事漬けの日常に帰って行く。
 今度はいつ会えるんだろう。日本に帰ってくることはあるんだろうか。
 ふと目の奥がじんわりと熱くなったのに気づき、悠理は慌ててまぶたをぱちぱちした。
「そ、か。あっというまだったな。せっかく日本に戻ってきても仕事ばっかで、羽根を伸ばす余裕なんかなかっただろ、おまえ」  
 悠理のことさらに明るい声だけが、虚しく澄み切った空気に響く。
「まあそうですね。……でも、みんなに会えてよかったですよ」
 清四郎は目を細めて笑った。昔を懐かしむように。──楽しかった学生時代を、遥か昔のことのように。
「昨夜は野梨子の手痛い出迎えに遭いましたが、それでも無理して日本に帰ってきてよかったと思ってますよ。学生時代に戻ったようで、楽しかった」
「そっか……なら、よかった。可憐は清四郎に食べさせるんだって、昨日の朝から料理の準備で忙しそうだったもんな」
「料理のほとんどは、おまえに食べられてしまいましたがね」
「だってさあ、しょーがないじゃん。みんなが食べないんだからさ。もったいないもん」
 ぷうと頬を膨らませると、清四郎は口元を緩ませて笑った。
「悠理は……5年前と変わりませんね。少しは女らしくなったかと期待してましたが」
「悪かったな、変わってなくて。それに、女らしくなる必要なんか、これっぽっちもないもんなー」
 何故か偉そうに胸を反らした悠理だったが、もの言いたげな清四郎の視線に気づいて口をつぐんだ。
 清四郎は視線を落とした。足下に置いた朝顔の鉢植えをじっと見つめたまま、何も言わない。悠理もつられて、朝顔の鉢植えに目を移した。赤・青・白・薄紫の朝顔の花に、朝露がきらきらと光っている。
「……えーと、それで? 朝早くから何の用?」
 いいたくない言葉だった。清四郎との別れを切り出しているようで。
 だけど尋ねないわけにはいかなかった。
「今日、ロンドンに戻りますが──」
 清四郎は少し逡巡したあと言った。
「早くに目が覚めましてね、思いついて今朝、下谷の朝顔市に行ってきたんですよ。そこで、この朝顔を買ってきたんですが。……悠理にあげます」
「あたいに?」
 ええ、とうなずいて、清四郎は鉢植えを取り上げ悠理の手に渡した。
 両腕に抱え込む。ずしりと重い──鉢に立てた支柱に朝顔の蔓が巻き付いて、こぼれ落ちるほどの大輪の花を咲かせている。そよそよと風が寄せてきて、悠理の細腕の中で朝顔の花が揺れた。
「ええと……」
 どう言ったらいいのか分からなかった。悠理はまじまじと朝顔を見つめて、ようやく頭の隅っこから一番相応しい言葉を見つけ出した。たとえありきたりではあっても、今悠理が口にすべき感謝の言葉。
「ありがと。きれいだな」
「いえいえ、どういたしまして」
 清四郎がおどけたようにお辞儀をする。らしくない態度に、悠理の方が戸惑った。
「清四郎が花をくれるなんてなあ……初めてだよな?」
「そうですね。お前には花より団子……食べ物が一番ですからね」
 生真面目な顔で言ってのけて、清四郎はにこりと笑った。
「これってまさか、あたいに、朝顔の観察日記を書けってこと?」
「それは構いませんが、どうせ続きやしないでしょう?」
「う……それは、そうかもしれないけど」
 自慢じゃないが、小学校の時に育てた朝顔はすべて、観察日記を一日もつけないまま枯れてしまった。幼稚園時代からの長いつきあいの清四郎が、それを忘れているわけがない。
「大事にしてくれれば、それでいいですよ。お前が世話をしなくても、メイドに言っておいてくれれば枯れはしないでしょうから」
「いーや、ゼッタイあたいが世話をするっ! ゼーッタイ、ゼッタイ、約束するかんな!」
 せっかく清四郎がくれた朝顔だ。他のやつに触らせたりするもんか。
 顔を紅潮させながら悠理が大声で断言すると、清四郎は困ったように笑った。
「分かりました。じゃあ、お前を信じますよ」
「うん、任せてっ!」
 ぐっとピースサインを作って清四郎にウィンクする。すると清四郎は一瞬顔をしかめた。
 あれ、なんかあたい変なこと言ったかな──悠理が怪訝に思う間もなく、清四郎は躊躇いがちに口を開いた。
「悠理……僕は」
 その目は、まっすぐに悠理だけを見つめている。黒く輝く珠のような瞳──世界中の夜空を掌に集めて、ガラス玉の中に溶かし込んだような深い深い闇の色。
 悠理には受け止めきれないほどの数多の思いを秘めたその瞳は、清四郎がロンドンに発つ前、どんなときも悠理の傍にいてくれた熱い日々の中、目にしていたのと同じものだった。
「……何?」
 5年前とはきっと違う。日本を発つ前に、きっとあたいに言ってくれるに違いない。たとえそれが、あたいが求めていなかった──聞きたくもなかった別れの言葉だとしても。
 そう思うと、身体が硬くなった。足下が危うくなる──まるで超高層ビルの屋上、そのフェンスの上に立っているかのような。悠理は不安を覚え、奥歯をきっと噛みしめた。朝顔の鉢を抱きかかえる腕に力が籠もる。
 清四郎は俯いた。悠理の視線を懼れているかのように。清四郎らしくない態度──悠理はごくりと唾を飲み込んだ。悪い予感が胸を騒がす。
 しばらくの沈黙。清四郎は思いを振り切るように頭を上げて、まるで上司が部下に仕事の命令するような切り口上で言葉を継いだ。
「その朝顔は、僕の気持ちです」
「へ? ……気持ちって」
「だから、大事にしてください」
「う、うん」
 それだけだった。清四郎はにこりと悠理に笑いかけ、もう用事はすんだとばかりに背を向けた。
 去ってゆく。その後ろ姿が小さくなって行く。
 追いかけることはできなかった。足が凍りついてしまってぴくりとも動かない。
 今のはどういう意味? さっぱりわかんない。それともあたいが馬鹿だから、清四郎が言った言葉の意味が分かんないだけなのかな。
 もしかしたら──あれは、あたいへの別れの言葉?



 悠理は呆然と立ちつくした。5年前と同じく──悠理は、黙って清四郎が日本を去ってゆくのを見守ることしかできなかった。






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