-3-

 

 魂が抜かれてしまった人形のようになって、悠理はふらふらと部屋に戻り朝食を食べた。いつものような食欲を見せなかったお嬢様に、メイドたちが心配そうに声をかけたが、悠理にはその声も聞こえていなかった。
 部屋に置いた朝顔の鉢を見つめているうちに、少しずつ現実が見えてきた。
 僕の気持ちだと、清四郎は言った。この朝顔に一体どんな意味が込められているんだろう。
 やっぱり分からない。あたい一人じゃどうすることもできない。野梨子と可憐に助けてもらわなきゃ。
 そう思うといてもたってもいられなくなった。
 悠理は鉢植えを抱えて、急いで野梨子の家に向かった。その隣、菊正宗家はしんと静まっている。きっと清四郎は家を出て、もう成田に向かっているに違いない。
 先に連絡していたから、野梨子はいたわるような儚げな笑顔を向けて、悠理を出迎えてくれた。
 通されたのは昨夜と同じ座敷。縁側に朝顔の鉢植えを置いて、野梨子も黙ったまま可憐を待った。そして、可憐はやってくるなり額に浮いた汗も拭かず、悠理の目の前にある朝顔をまじまじと見つめ、首をかしげながら尋ねた。
「これを、清四郎が? 僕の気持ちって言ったの?」
「う、うん。確かにそう言った」
 可憐のきれいに整えられた眉がひそめられる。
「普通、男が女にあげるって言ったらもっときれいな花束よねえ。朝顔なんて……それも鉢植えよぉ? どういうつもりなのかしら。野梨子、あんたならイミ分かる?」
「そうですわね……」
 野梨子が呟いて、萎れ始めた朝顔の花に手を触れた。大きく開いた花は力なく俯いて、鮮やかな色も失いつつあった。
「確かに清四郎らしくありませんわ。ロンドンに発つ日に渡すような花じゃありませんものね」
「二人にも、やっぱり分からないのかあ」
 悠理は盛大なため息をついた。僕の気持ち、と清四郎は言ったが、女に花を渡すというありきたりの意味がたったひとつあるだけで、その裏に隠されたものなどなにもないのかもしれない。
「あ、もしかしたら花言葉! 花言葉かもしれないわよ?」
 可憐がぱちりと指を鳴らした。
「可憐! きっとそれだじょ〜!」
 悠理は目の前がぱあっと明るくなった気がした。しかし、野梨子一人眉を曇らせている。
「花言葉はいい案だと思いますけれど、清四郎がそんなものに興味あると思いませんわ。第一、今朝朝顔市で買ってきたものなのでしょう? 花言葉を調べる時間なんてあったのかしら」
「それはそうかもしれないけど……でも、一応、花言葉調べてみたら?」
 可憐の提案に、野梨子は渋々うなずいて座敷を出てゆき、掌に載るくらいの花言葉の本を持ってきた。可憐と悠理が本を覗き込む。
 朝顔の花言葉──はかない恋・愛情の絆・固い約束。
「ううん……当たってるような、当たってないような」
 可憐は頭を抱えた。野梨子もじっと、朝顔のカラー写真が載ったページに視線を落としながら呟く。
「はかない恋というのは違いますわよね。愛情の絆、というのは合っているような気もしますけれど……悠理、清四郎となにか約束を交わしませんでした?」
「ううーん……約束っていったって、この朝顔の世話はあたいがするって言ったくらいでー」
 さすがに色恋に鈍い悠理にも、それは全くの見当違いと分かっている。
「その他には? たとえば、5年前。ロンドンに清四郎が行く前、何か約束しなかった?」
「ええー?」
 悠理は頭を抱え込んだ。5年前……悠理の心許ない頭でも、清四郎がロンドンに発った日、そして、ロンドンに行くと悠理に言った夜の出来事は覚えている。どんなにショックで悲しかったか。だけれども、約束なんかなにも交わさなかった。第一、どんなものであっても清四郎と約束していたのなら、今のどっちつかずの苦しみなんか、きっと悠理には無縁のものだったに違いない。
「なかったと思うじょ。あたいが……気づいてないだけなのかもしんないけど」
 その頼りない呟きに、可憐が盛大なため息をついた。ふう、と肩を落として、悠理を見つめる。その視線には仲間を気遣う優しさがあふれていた。
「あんたのことをよく分かってる清四郎が、そんな気づかないような約束をするわけないわよねえ。じゃあ、朝顔には深い意味はないのかしら」
「そうですわねえ」
 野梨子は朝顔に手を伸ばした。花は蒸し暑い梅雨空の下しおれきってしまい、青々とした葉の中に埋もれそうになっている。
「……あら?」
 朝顔の蔓を触っていた野梨子が、何かに気づいて怪訝そうに首をかしげる。両手を伸ばして何かを探り──その掌には折りたたまれた紙があった。
「なにこれ?」
「蔓の下のほうに結んでありましたの」
 悠理が身を乗り出す。野梨子は紙を広げた。
 すかし入りの薄紫色の和紙で、野梨子の掌が透けて見えるほど薄い。そして、その上には流れるような達筆で短い文章が書かれていた。
「なになに? 何が書いてあんの?」
 悠理には文字の判読ができなかった。清四郎の文字は見慣れているが、筆で書いた草書は目にしたことがない。
「あたしにも読めないわ。野梨子、あんたなら分かるんでしょ?」
「ええ……そうですわね……あら、もしかしたら、これ……」
 野梨子は何度も視線を和紙の上に走らせた。和紙に書かれた文字を、野梨子の華奢な一差し指がなぞってゆく。何かを必死に思い出すように伏せられた睫毛が揺れ、声に出さずに口の中で呟いている。
「清四郎の手紙かなんか?」
 悠理は声をひそめて尋ねた。野梨子がはっと面をあげた。
 可憐と悠理はもう和紙を見ていなかった。野梨子だけをひたすらに見つめている──たった一つのよすがとでも言うように。
「ええ、清四郎が悠理にあてた手紙……のようなものだと思いますわ」
 しっかりとうなずいて、わずか2行の手紙を悠理の掌に載せる。悠理の眉が不思議そうに曇る。
「なんて書いてあったの?」
 野梨子はそれに答えず、立ち上がって再び座敷を出ていった。そうして一冊の本を手に戻ってきた。
「本? それがどうしたの?」
「清四郎は、これを元にしたのですわ」
 その手には「源氏物語」があった。与謝野晶子著と書いてある本はとても古いもので、くすんだえんじ色の外箱に入っていた。
「お母様が嫁いだときに持参したものなのですけれど、その中に、その和紙に書かれた短歌──いいえ、和歌と同じものがありますのよ」
「ええ?」
 可憐と悠理の驚きの声が重なった。野梨子は箱から本を取り出し、ぱらぱらとめくる。どの巻に載っている文なのかはすぐに分かった。中学生の時何度も何度も読んだ本で、光源氏に翻弄される女たちに憤慨しながらも、恋に恋するような、一種のあこがれを抱いたものだった。
「清四郎ったら、光源氏をきどっているつもりなのかもしれませんけれど、悠理が私に相談しなかったらどうするつもりだったのかしら」
 頁を繰りながら呟く野梨子の声は不機嫌そのものだった。それよりも、悠理が朝顔に結ばれた文に気づかないまま水をやったりすれば、あっというまに墨は和紙ににじんでしまって、野梨子でさえも文字の判別できなかっただろう。
 それに気づかない清四郎とは思えない。しかも、朝顔の葉に隠れるような場所に結んで。
 野梨子はちらりと、悠理の様子を窺った。悠理は固唾を飲むようにして野梨子の一挙手一投足を見守っている。今までにないくらい真剣な顔つきで──だが一抹の不安も、一心に向けてくるその瞳の中で揺れている。
 昨夜の悠理の姿が思い出される。不安で不安で胸が張り裂けそうで、5年ぶりに会った清四郎に話したいことも尋ねたいこともいっぱいあったのに、それを全部胸の奥にしまい込んで、清四郎を信じていると言った悠理。そんな悠理の気持ちに、あの清四郎が気づいていないはずがない。
 七夕の夜。織姫と彦星が一年に一度──たった一度会うことを許された夜。
 ようやく腑に落ちた。清四郎がどういうつもりで、この文を朝顔に結んだのか。
 もしかしたら、清四郎は賭けにでたのかもしれませんわね。悠理と自分の繋がりの強さを確かめるために。
 清四郎は決して自分の胸の内を人には見せないが、野梨子には分かっている。
 きっと悠理と同じくらい清四郎も、5年という長い月日、悠理に会えない寂しさや不安を感じている自分を騙し続けているうちに、悠理を思う自分の気持ちに自信が持てなくなってしまったのだろう。
 だから、こうやって回りくどい方法でしか、悠理への思いを形にするしかなかった──
 相変わらず、変にプライドが高い人ですわね。恋愛に関しては、光源氏を見習えばよろしいのよ。
 その清四郎が、源氏物語の歌を選んだというのだから、なんの因果なのやら。
 探していた和歌は確かにあった。「朝顔」という巻に入っている。
「悠理、古典の授業で源氏物語をやりましたわね? 覚えていないかもしれませんけれど、その中に、朝顔の姫君という女性が出てきますのよ」
 源氏物語をぱたりと閉じて、野梨子は尋ねた。
「……覚えてない」
 悠理は顔をしかめてぶるぶると首を振った。可憐に目を向けると、彼女も肩をすくめてかぶりを振った。
「出番が少ない女性ですから覚えてないのも仕方ありませんけれど……朝顔の姫君は光源氏が幼い頃からの知り合いで──いわゆる幼なじみですの」
 へえ、と二人が感心したように呟く。
「光源氏はなんども朝顔の姫君に求愛するのですけれど、彼女は光源氏の数多いる女君の一人になるのを拒み続けて、最後まで独り身を通しましたのよ」
「朝顔の姫君に関係した和歌だから、朝顔を悠理にプレゼントしたのは分かるけれど……どう考えても悠理とそのお姫様は重ならないわよ? その……野梨子なら分からないでもないけれど」
 可憐の不用意な一言に、野梨子はきっときつい視線を向けた。可憐自身も失言に気づいたらしく、首をすくめて「ごめーん」と頭を下げる。その意味に気づいたのかどうか、悠理はぷりぷりと憤慨しながら言った。
「可憐の言うとおりだじょ。第一、清四郎は光源氏みたいな女好きじゃないやい」
「もちろん、それは私だって分かってますわよ。清四郎も、別に悠理を朝顔の姫君に見立てたわけではないと思いますわ。きっと、重要だったのは朝顔にふさわしい和歌で……私がその意味に気づくことだったのじゃないかしら」
 入谷の朝顔市に行ったのが先か、それとも和歌が先か──そこまでは野梨子にも判断はつかなかったが、清四郎の性格を考えるとおそらく朝顔が先だろう。
 そして──
 きっと、昨夜の七夕祭り。悠理が言った清四郎への信頼の言葉も、そのきっかけに違いありませんわ。
 だって、朝顔の別名は「牽牛花」。七夕の夜、織姫がつかの間の逢瀬にその身を焦がす相手ですもの。
「悠理、この文にはこう書いてありますのよ」
 野梨子は玲瓏な声で和歌を詠んだ。
 二人の間に5年という時が流れていっても、失せることのない愛しい心を伝える、古の愛の歌を。
見おしりの  つゆわすられぬ  朝顔の
花の盛りは  過ぎやしぬらむ


昔、朝起きたばかりのあなたの顔が忘れられません。
その朝顔の花は盛りをすぎてしまったのでしょうか。
たとえお互いに恋に夢中になる時期を過ぎてしまったとしても、今でもあなたが好きです。

 



NEXT

作品一覧