両国橋の真上に花火があがった。二つ、三つと続けて。閃光が輝くと同時にその花ははらりと砕け、蛍火のごときかすかな光となって川面に落ちてゆく。
梅雨の晴れ間の今日、剣菱屋主催の大花火は、両国の川開きと劣らぬ見物人を集めていた。江戸一番の豪商である剣菱屋は毎年花火を揚げているが、今年の、夜空に咲く刹那の花にこめられた本当の意味を知るものは、おそらく有閑倶楽部の6人しかいなかっただろう。
そして彼らは、両国橋近くに船を浮かべて、鍵屋の花火船が打ちあげる花火を眺めていた。
空に上がって星を散らしてゆく「群光」
花火船に据えられた筒から、赤い火の尾を引いて昇ってゆく「流星」
花びらが垂れ下がるように落ちてゆく「禿菊」
川に浮かぶ納涼船や、料亭の座敷、橋の上から歓声がわきあがり、 一つ一つの花火が、仙太とおけいの霊を慰めるように、一瞬の輝きを放って深い闇に消えてゆく。
「本当にいいのかしらねえ。こんなに賑やかにして」
傍らに座る魅録に酒を注ぎながら、可憐はため息混じりに呟いた。
「清四郎が言うんだから、間違いないと思うよ。それに、仙太って花火職人だったんだよね? 亡くなった人の好きな物を御供えしたりするんだから……花火もありなんじゃないかな」
美童の言葉に、「そうねえ」と可憐は呟いた。
「それに、両国の川開きにあげる花火。あれは、8代さまの時代にコロリが流行って、それで亡くなった人々の霊を慰めるために行ったと聞いてますわ」
「悪霊退散の意味もこめられてるそうだぜ」
魅録は灰色の煙がゆるりとたゆたう夜空を、ちらりと振り返る。
江戸の町に棲くう悪霊、すべての悪を覆い隠す闇──花火の轟音は、確かに禍々しいものを払う力を持っていそうだった。
「そうなの? なら、清四郎が言うことは正しいのね」
ようやく納得したように可憐がうなずく。
四人は、船の舳先に離れて座っている悠理と清四郎に目を向けた。いつものように、花火には興味もない素振りで無心に物を食べている悠理と、その傍らで悠理をいとおしそうに見つめている清四郎である。
「悠理も元気になってよかったですわ」
野梨子はふう、と深い息を吐きながら微笑む。
あの晩、清四郎は確かに悠理を連れて戻ってきた。意識を取り戻すなり、すぐに悠理を抱きしめて。
その腕の中で、意識を取り戻した悠理はひどく疲れていたようだった。ようやく身体の自由を取り戻して、悠理に駆け寄ってきた4人に、弱々しいけれど──どこかすっきりとした笑顔を向けて、そして糸が切れたかのように唐突に眠ってしまった。
悠理の意識の中で、仙太の霊が彼女を一体どんな目に遭わせたのか、もちろん彼らは知りたがった。だが、その後丸二日眠り込み、ようやく目を覚ましてからの悠理は、今度こそいつもの彼女に戻ったようだったので、無理して聞き出すこともないと諦めたのだった。
もちろん、清四郎も何も語らない。「悠理が無事に僕たちの元に戻ってきたんですから、もういいじゃないですか」とはぐらかすだけ。
浮かべる薄い笑みの裏に隠されているものが知りたくて、魅録は一人、玉屋が火を出したあの日、仙太とおけいの身になにが起こったのかを調べてみた。
玉屋の主人は財産没収の上江戸処払い故、そこで働いていた花火職人は幾人か鍵屋に雇われたのではないかと鍵屋に当たってみれば、仙太を知っている者がいた。そして、その男からおけいが勤めていた一膳飯屋「みのわ」のその後を聞き、ようやくすべての謎が解けた。
「結局、おけいって娘と仙太の間には何にもなかったようだな」
説明を請う3人に、魅録はじらすように銚子を1本空にしてからようやく話し始めた。
「何もなかった? でも、仙太はおけいちゃんを助けられなかったことを悔やんでいたからこそ、悠理に取り憑いたんだよね?」
好意を寄せてくる娘には、いつでも優しい態度で接する美童には理解できないようだった。
「それがな、事実は逆なんだ」
「逆?」
可憐が不思議そうに首を傾げる。
「そうさ。仙太がおけいを助けに行ったんじゃない──おけいが、仙太を助けに行ったんだ」
「ええ?」
三人の驚きの声が重なる。魅録が思わず顔をしかめたくらい大きな声だったが、間には見えない壁があるとばかりに、悠理と清四郎はすっかり二人きりの世界である。
魅録はその二人を横目に、軽く舌打ちをしてから話を続けた。
「おけいが勤めていた飯屋は、吉川町の外れだ。玉屋が火を出してもすぐ逃げ出しさえすれば危険はない。実際、飯屋の主人夫婦は助かって、今は深川で新しい店を出してる。逃げろと言った主人の言葉を振り切って、おけいは仙太の無事を確かめに玉屋に向かったんだ」
仙太の無事な姿を見るために。火の粉が舞う中を、逃げる人々の波に逆らって。
「それで……火に巻かれて亡くなってしまったんだね」
美童が沈んだ声で呟き、可憐がぐすんと鼻をすすった。
「でも、その気持ち分かるわ。好きな人の無事を確かめに……危険を顧みずに。人を好きになるって、そういうものなのよねえ」
「そうですわね」
「勿論僕も、野梨子が火事にあったら、どこにいても駆けつけて助けるよ」
しみじみとした口調でうなずいた野梨子に、美童がすかさず言葉を添える。
「嘘でもうれしいですわよ、美童」
それを、女たちに向けるいつもと同じ優しい言葉と受け取ったのか、野梨子はただにっこりと微笑んだ。
「もう〜嘘じゃないよ、本気だよ」
「ええ、勿論分かっていますわ。──それよりも、魅録。そのことを、仙太さんは知らなかったんですの?」
一人慌てている美童に背を向けて、野梨子は尋ねた。可哀想になあ──と、心の中で美童に同情しながらも、脱線しかけた話の筋道を戻してくれた野梨子にひそかに感謝している魅録である。
「そう、おけいが死んだことは知っていたらしいが……そんないきさつがあったなんて仙太はまったく知らなかったのさ」杯の中の酒をくいと飲み干して続ける。「──今年の4月まではな」
「4月?」
きょとんとした可憐の隣で、野梨子が腑に落ちたとばかりに、掌を打ち合わせた。
「おけいさんが勤めていたお店のご主人が、仙太さんに話したのですわね?」
「あたり」
「それで、分かりましたわ。仙太さんが今年の川開きの夜に、自ら死を選んだ理由」
さすがは頭の回転が速い野梨子である。可憐と美童の二人は、顔を見合わせて首を傾げるばかりだ。
「ねえ、あたしにも分かるように話してよ」
むくれた可憐の肩を、魅録は宥めるように叩く。
「吉川町にあったみのわって店は、今は深川にあるってさっき言っただろ。仙太の住む長屋からちょっと離れているが──覚えているか? 仙太の女。お辰って長唄の師匠」
「覚えているよ。堀田さんが言うには、ちょっと年増のいい女だよね」
真っ先に答えたのは美童だった。想像通りの答えが返ってきて、魅録は苦い笑いを浮かべる。確かに、美童が好みそうな年増の色気に溢れた女だった。
「そう、あの女の家の近くにみのわはあった。名前も同じだ。そのみのわに、今年の4月、仙太がお辰と一緒にやって来たんだ」
「……それって偶然に?」
可憐がぶるっと身震いをする。
「そうらしいな。お辰が昼飯を食いに連れて行ったんだそうだ。仙太は、みのわって名前にも気づかなかったようだな。店の主人に声を掛けられて、ようやく気づいたんだろう……ばつの悪そうな顔をしていたって、主人は話していた」
年増の女のヒモにしか見えない自分に、おそらく仙太は気づいていたのだろう。かつて玉屋で花火職人になるべく頑張っていた自分と、日々かつかつで生きている今の自分と──改めてその格差に気づき恥ずかしく思ったに違いない。
「主人夫婦は、おけいの気持ちを知っていたんだ」
仙太をどんなに思っていたか。深川の富岡八幡まで行って貰ってきたお札にお守り袋を作ってまで、花火作りという危ない仕事で怪我をしないよう、花火師になるという仙太の夢が叶うよう、祈っていたおけいの気持ちを、主人は無駄にしたくはなかったのだろう。
「それで……仙太さんに全部話しちゃったわけ?」
ゆっくりと、魅録はうなずいた。
「主人がすべてを話したのは、仙太を励ます気持ちが半分、おけいの無念を晴らしたい気持ちが半分ってところだろう。おけいを、我が娘のようにかわいがっていたそうだからな。俺が思うに……火事のあとすぐにその話を聞いていたなら、仙太はきっとおけいの決死の思いを無駄にしなかっただろう。だが、遅すぎた。仙太は、あの火事の夜からずっと、自分が憧れ続けてきた花火から逃げていた。だから──」
「川開きのあの晩、おけいさんの気持ちに応えられなかった後悔から逃げるために、川に飛び込んだというわけですわね」
魅録の言葉を引き取って、野梨子が呟いた。
魅録はもう答えなかった。無言で、可憐が注いでくれた酒を口に運ぶ。そして可憐も空の杯の縁をなぞりながら、ため息混じりに呟く。
「きっと、仙太さんもおけいちゃんのことを憎からず思っていたのよ。だって、お守り袋を捨てることができなかったんだもの。……だから、おけいちゃんを助けられなかった自分を、おけいちゃんの本当の死の原因を知らなかった自分を責めて責めて、到頭耐えられなくなって死を選んでしまったのよね」
「……そうだねえ」
美童も顔を曇らせてうつむく。
仙太が死んでしまった以上、正しい答えなんてどこにもない。おそらく、それを知るのは悠理一人だろう。
それでも、仙太は悠理のお陰で償うことができた。おけいの気持ちに応えることができた。死んでしまえばすべてが終わりと人は言うが……その身を自ら滅ぼしても魂は苦しみから逃れられない。
確かにあの世とやらがあるのならば、未練を残してこの世を彷徨う魂が、無事成仏できるよう、手を貸してやるのが現世を生きる者の役目なのかもしれない。
「今頃──あの二人、極楽で手を取り合って仲良くしているわね、きっと」
可憐は、目尻に浮かんだ涙の粒をそっと袖口で拭う。
美童は、にこりと笑って舳先の二人を見やる。
「悠理と清四郎のように?」
「そうですわね」
4人は互いにうなずきあい、笑いあう。花火の音に負けぬよう、楽しげに。