猿の手
BY hachi様



〜4〜



  清四郎は、悠理と晴れて恋人同士になった。

それを知った仲間たちは大層驚いたが、すぐに二人を祝福してくれた。

手を繋いで道を歩き、二人きりになったらキスをして、離れ離れの夜も、お休み、を言うためだけに電話をする。

当たり前だが、新鮮な日々が、ゆっくりと過ぎていく。

清四郎は、悠理とつき合うことによって、心の充実という新たな幸福を得た。

しかし―― 不安だけは、いつまで経っても拭い去れなかった。

 

 

悠理はいつも不安げだった。

愛を確かめ合った直後でも、清四郎の顔を覗き込み、あたいのこと好き?と質問してくる。

いくら好きだと伝えても、決して納得しない。

眠りにつくと魘され、目覚めると必ず清四郎と身体を繋ぎたがる。

清四郎が帰宅しようとすると、泣き出しそうな顔をして引き止める。

まるで、清四郎を信じていないかのように。

 

何が彼女をそこまで不安にさせているのか、清四郎には分からなかった。

ただ、悠理が不安な顔をしているときは、必ずペンダントを握り締めていることには、気づいていた。

 

悠理は、決してペンダントを外そうとしない。

制服を着ているときも、シャワーを浴びるときも、悦楽に耽るときすらも。

彼女がペンダントを身につけはじめたのは、二人が関係を結ぶ直前だ。

アクセサリーには目敏い可憐が、普段は滅多に装飾品を身につけない悠理をからかっていたのを覚えている。

そして、薬に惑わされ、狂ったように悠理を求めたあの夜も、彼女の白い胸元で、ペンダントが揺れていた。

 

 

金曜と、土曜を繋ぐ夜である。

週末は、悠理の部屋で過ごすのが、ここ数ヶ月の決まりになっていた。

悠理は清四郎の裸の胸に顔を埋め、規則正しい寝息を立てている。

清四郎は悠理の肩を掴んで、起こさぬように、そっと仰向けに寝かせた。

白い胸が、穏やかに上下しているのを確かめてから、シーツに肘をついて、悠理の上に身を乗り出した。

彼女の柔らかな双丘の上で、歪んだ楕円が鈍い光を放っている。

その表面には、歪な紋様が刻まれていた。

朽木のような棒の先が、五本に枝分かれしている。

違う。朽木ではない。

これは、腕だ。

木乃伊のように干乾びた、奇妙な腕が刻まれているのだ。

 

瞬間、記憶が甦った。

 

催淫剤を盛られたとき。悠理は、猿の手、と呟いた。

お互いに酷く興奮していたから、意味のない言葉を漏らしただけだと思っていた。

これが『猿の手』だとしても、本当に効力を発するとは思えない。昨今流行の、まじないグッズの一種であろう。

しかし、悠理は、このペンダントを酷く気にしている。

それこそ、異常なほどに。

 

突然、悠理が泣き出した。

「・・・せいしろ・・・お願い、嫌いにならないで・・・」

ぽろぽろと大粒の涙を流しながら、縋るように中空に手を伸ばす。

清四郎は咄嗟にその手を取って、自分の胸に押しつけた。

「嫌いになどなりませんから、安心してください。」

「・・・清四郎に嫌われたら、生きていけないよ・・・お願い、嫌いにならないで!」

「悠理!!」

叫ぶような呼びかけに、悠理はかっと眼を開いた。しかし、涙は止まらない。

泣きながら清四郎の背に手を回し、渾身の力で抱きついてくる。

「ごめん、ごめんね、清四郎・・・」

「どうして悠理が謝るのです?謝るようなことなんて、悠理は何もしていないじゃないですか?」

「違う、あたいは謝らなくちゃいけないんだ。いくらでも謝るから、嫌いにならないで・・・」

悠理はただ泣きじゃくりながら謝るだけで、何も答えようとはしなかった。

 

 

 **********

  

 

  清四郎は、野梨子と可憐に事情を話すことにした。

清四郎には頑なな悠理も、同性になら心を開くと考えたのだ。

それで、ただの杞憂に終われば、男たちにまで話す必要はない。もともとは、清四郎と悠理のプライヴェートな

問題である。ゆえに、あまり大っぴらにするのは避けたかった。

昼休み、二人を密かに呼び出した。

生徒会室に呼び出せば、悠理に見つかる心配があるため、茶道室を使うことにした。

しかし、現われたのは、野梨子ひとりだけだった。

「可憐は、物理の小テストの結果が芳しくなかったものですから、職員室に・・・」

「呼び出されたわけですか。」

「ええ。ですから、お話は私ひとりで伺って、あとから可憐に伝えますわ。」

野梨子はかたちのよい眉を顰めて、小声で囁いた。

「お話って、悠理のことでしょう?」

おかっぱ頭を傾げ、心配げに清四郎を見つめる。

「清四郎とおつきあいをはじめて、今が一番幸せな時期でしょうに、悠理ったら酷く塞ぎ込んでいますわ。

清四郎が無体なことをして、悠理を悩ませているのではありませんの?」

「無体なんてしていませんよ。すべては悠理と合意の上です。」

さらりと言ってのける清四郎に、野梨子は顔を赤らめながら憤慨した。

「下品な冗談を仰るなら、このまま帰りますわよ。」

潔癖で古風な幼馴染に苦笑しながら、清四郎は素直に謝罪した。それでも野梨子の機嫌は直らない。

彼女にこの手の冗談が通じないのは分かっていたので、自業自得だ。

何とか彼女の機嫌を取り、清四郎は、呼び出した理由を話しはじめた。

 

 

窓の外を黒い影が過ぎり、悠理は身を強張らせた。

ほぼ同時に、ばさばさと羽ばたきが聞こえ、すぐに烏と分かったものの、不気味であることには違いない。

真昼の陽光が差す明るい教室。見回せば、クラスメイトたちがあちこちで屈託なく笑い合っている。

そんなはずはないのに、皆が悠理の噂をしているように感じた。

汚い方法で、高嶺の花である清四郎を手に入れた、厭らしい女だと。

耐え切れず、教室を飛び出す。

 

清四郎に会いたかった。

とにかく、清四郎に会いたかった。

 

清四郎に会えば、不安は募るけれど、発狂しそうな苦しさからは逃れられる。

 

そう思って、愛しいひとの姿を探し、学園じゅうを走り回った。

 

茶道室の前を通りかかったとき、中から聞き覚えのある声が漏れてきた。

「・・・それで、どうなさるおつもりなの?」

反射的に足が止まる。

「僕が話せば、悠理が取り乱すのは確実ですからね。折を見て、野梨子がそれとなく切り出してくれると有り難い

です。」

何年も聞いてきた声を、最近は、ずっと耳元で聞いてきた声を、間違えるはずがなかった。

「今の悠理は、普通じゃありませんから、私が話しても、きっと取り乱しますわ。」

「迷惑をかけます。」

「本当ですわ。」

野梨子が、くすり、と笑う。

その笑い声が、鼓膜に刺さった。

 

知らないうちに、悠理は駆け出していた。

涙が溢れて、止まらなかった。

 

催淫剤を盛ったとき、性を排泄する道具として扱われたときよりも、哀しかった。

身体だけで繋がっているときよりも、虚しかった。

彼の意思を無視して、心を望んだときよりも、苦しかった。

 

清四郎は、悠理との関係にピリオドを打とうとしている。

それも―― 野梨子を間に入れて。

 

悠理にはない、明晰な頭脳。信念に裏打ちされた、女らしさ。

 

悠理は、負けたのだ。

 

清四郎に恋して、自分に備わっていればいいと願った、野梨子の魅力に。

 

 

「・・・お願い、最後の、願いを叶えて。」

 

悠理はペンダントを握り締めた。

 

「清四郎の心が、あたいから離れないようにして!」

 

大粒の涙が滴り、指の間に吸い込まれる。

 

「清四郎が、他の女を好きにならないようにして!!」

 

 

頭の中で、黒衣の男が、笑った。

 

 

**********  

 

 

  「本当ですわ。」

野梨子が、くすり、と笑って、小首を傾げた。

「流石の清四郎も、好きなひとを相手にするとなると、臆病になりますのね。」

彼女らしい皮肉に、清四郎は肩を竦めた。

「貴女も誰かを好きになれば、僕の気持ちが理解できますよ。」

そして、ふっと真顔に戻る。

「とにかく、これ以上、悠理に辛い顔をして欲しくないんです。」

以前の、屈託のない笑顔を取り戻して欲しい。

 

まさか悠理が苦悶の涙を流しているとは知らず、清四郎は、ひたすらに彼女を想った。

 

 

 

 

週半ばの祝日、清四郎は、同好会の会合で、地方都市に出かけていった。

茶道室での会話を盗み聞きして以来、悠理は清四郎と会うのを避けていた。

会えば、別れを告げられそうな気がして。

 

昨日、野梨子が訪ねてきたけれど、会わなかった。いや、会えなかった。

そんなことはないと分かっているのに、大きな瞳に見下されそうで、怖かった。

 

 

猿の手が、みっつめの願いを叶えてくれる気配はない。

もしかしたら、次々と我儘な願いを言う悠理に、呆れているのかもしれない。

清四郎だけでなく、猿の手にまで呆れられるなど、救いようがなくて笑えてしまう。

魔法に頼り、翻弄される自分が情けなかったけれど、それでも清四郎を諦め切れない。

未練、だなんて軽い言葉で切り捨てられない。

 

清四郎を想うだけで、胸が潰れそうに痛む。

清四郎が恋しくて、愛しくて、心が捻じ切れてしまいそうだ。

 

「お願い・・・清四郎、他の女を見ないで。あたいだけを、好きでいて。」

 

どれだけ我儘な願いかは分かっていた。

それでも、そう願わずにはいられなかった。

もう、彼なしでは生きていけないほど、彼を愛していたから。

 

悠理はペンダントを握り締め、ひたすらにそう願いつづけた。

 

 

電話が鳴ったのは、夕方だった。

液晶画面に出た、「清四郎」の文字に、一瞬だけ躊躇ったけれど、やはり彼の声が聞きたくて、着信ボタンを

押した。

「悠理?」

ほんの数日聞かなかっただけの声。なのに、酷く懐かしくて、涙が出た。

「・・・せいしろぉ・・・今すぐ、会いたいよ・・・」

会えば別れを告げられるかもしれないのに、恋しさが、それに勝った。

会いたくて、会いたくて、ただ会いたくて、叫び出してしまいそうだ。

「僕もですよ。」

電話の向こうから聞こえる、微かな笑い声。

「今すぐ会って、悠理を抱きしめたい。」

その言葉が、魔法による偽りのものだとしても、嬉しさのあまり涙が零れた。

「今から高速バスに乗ります。三時間後には、貴女の家に着く。少し遅めですが、一緒に夕食をとりましょう。」

「うん。待っているよ。何か食べたいもの、ある?」

一瞬の間のあと、答が返ってきた。

「貴女が食べたい。」

ベッドの中で聞く囁きと、同じ声音。

その声を聞いただけで、下腹部が甘く疼いた。

「・・・せいしろ・・・」

「ん?」

「お願い・・・あたいだけを、見ていて。」

「ええ。誓います。だから、悠理も僕だけを見ていなさい。」

命令形の口調がいかにも清四郎らしくて、それが彼の本心だと、勘違いしそうになる。

清四郎は、猿の手がかけた魔法に、そう言わされているだけなのに。

 

電話を切ったあと、悠理はペンダントを握り締め、心の中で何度も問うた。

 

これで、いいんだよね?

これで、幸せになれるんだよね?

これで、苦しくはなくなるんだよね?

 

掌の中のペンダントは、いつまで経っても、冷たいままだった。

 

 

 

 

清四郎の帰りを待つ間、シャワーを浴びて、身を清めた。

たっぷりの泡をつけて、彼の舌が這うであろう部分を、丹念に洗う。

僅かでも彼に嫌な思いをさせたくなかった。

少しでも彼に好かれたかった。

そんなことを考えながら隅々まで身を清める自分は、馬鹿な女だと思った。

 

滴を拭わぬままバスルームを出て、大きな姿見の前に立つ。

肉付きの薄い身体に、不恰好なほど長い手足。

少女というより、少年のようだ。

こんな身体、清四郎には似合わない。

清四郎に似合うのは、女として完璧な肉体。

細い部分は細くて、丸い部分は丸い、可憐のような身体だ。

 

清四郎を愛してから、悠理は底なしの欲張りになった。

昔の自分が、そんな女を見たら、軽蔑して、呆れていただろう。

悠理は、自分が軽蔑する女に成り果ててしまったのだ。

そんな女を、清四郎が愛してくれるはずがない。

 

薄い胸の上で光る、歪んだ楕円。

いや―― 歪んでいるのは、ペンダントでなく、自分の心だ。

鏡の中で、身勝手な女が涙を流している。

裸で涙を流す女の姿は、酷く滑稽だった。

 

「清四郎・・・どうしたら、楽になれる?」

 

悠理は鏡の前で涙しながら、答の返らぬ問いを幾度もつづけた。

 

 

眼が腫れていたら、清四郎に嫌な思いをさせてしまう。

悠理は涙を拭い、服を身につけた。

もう一度顔を洗ったのは、清四郎が、頬や瞼にまで舌を這わすから。

彼に、塩辛い涙を味わわせたくはなかった。

清四郎の前では、屈託のない以前の悠理のままでいたかった。

今の醜い悠理を、見せたくなかった。

 

テレビを見ながら、髪を乾かす。

以前は大好きだったお笑い番組も、今は空虚に流れていくだけ。

清四郎を手に入れたら、世界は明るく輝くと思っていたのに。

悠理を取り巻く世界は、灰色になってしまった。

 

頭の中で、黒衣の男が笑う。

 

―― これが、君の望んだ世界だ。

 

 

テレビの画面の上に、白い文字が現われた。

 

高速道路で、玉突き事故が発生し、タンクローリーと接触したバスを含む七台が炎上していると、速報は

知らせていた。

 

悠理の手から、ドライヤーが滑り落ちた。

 

繰り返す速報。

 

バスの中には、まだ、多数の乗客が取り残されている模様。

 

 

悠理は携帯電話に飛びついた。

リダイヤル機能を使えば、ほんの少し指を動かすだけで、彼に繋がる。

しかし、いくら電話をしても、無愛想なアナウンスが流れるだけ。

 

 

―― これで、君の望みどおり。

 

黒衣の男が笑う。

 

―― これで、彼は永遠に君以外の女に心を奪われない。

 

「・・・い、いや・・・」

 

―― 彼は、永遠に君のものだ。

 

「いやああああああ!!」

 

悠理は咽喉が裂けんばかりの悲鳴を上げ、その場に崩れ落ちた。

 

 




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