水底 ーみなそこーBY hachi様
夢を、見た。
青一色の、水底に沈む夢を。
独りではなかった。 愛する人と抱き合い、充足感を覚えながら、水中を漂い、ゆっくりと沈んでいく。 誰も覗いたことない、暗い世界に沈んでも、不思議と怖くはなかった。 彼と一緒なら、彼がいるなら、どこへでも行ける。本心から、そう思った。
水は冷たいのに、身体は熱かった。 繋がった部分から、焼けつくような熱が迸る。 彼を抱く手に力を籠め、互いの間に青い水が入り込まないよう、肌を密着させる。 激しく打ち鳴る鼓動は、どちらのものだろう? それすらも分からなくなるほど、二人はひとつに解け合った。
熱くて、熱くて、何も考えられない。 ただ、ただ、愛しくて、愛しさのあまり、気が狂いそうだった。
ああ―― 聞いたことがある。 暗い深海にも、火山があると。 誰も見るひとのいない暗闇でも、海底では、熱いマグマが活動しているのだと。
ならば、水底にいる二人も、マグマではないだろうか? 繋がった身体が、求め合う心が、熱くて、熱くて、冷水すらも滾らせる。
こぽこぽと音を立てて水面を目指す気泡を、ぼんやりと眼で追いながら、そんなとりとめもないことを思う。
気泡が遠ざかり、青に消える。 霞んだ意識も、青に消える。
マグマという名の、地球の胎動。 清四郎という名の、激しい律動。
青一色の水底で、あたいは、気泡と一緒に嬌声を吐き出した。
目覚めたとき、悠理は青い世界にいた。 覚醒し切れぬ意識で、日常とは違う景色について、考える。
そうか―― ここは、自室でも、清四郎の部屋でもないのか。
そんな当然のことに納得しながら、ゆっくりと身を起こす。 身体の中心が痺れて、うまく手足が動かせない。記憶を辿るまでもなく、経験上、清四郎から酷く責め立てられて、失神した後だと分かる。彼は、翌日の行動を気にしないで済む夜は、延々と、しかも粘っこく悠理を責めるのだ。それこそ、悠理が気を失うまで。 忌々しいと思いながらも、そんな彼を待ち望んでいる自分がいるのも事実だから、清四郎だけを責めるわけにもいかない。
開け放したカーテンから、青い光が差している。 窓硝子の向こうには、遮るもの一つなく、銀板のような湖面と、どこまでも澄んだ夜空が広がっていた。
ここは、東京からそう遠くない場所にある、剣菱家が所有する別荘のひとつである。 近くにあるのは、小さな湖だけ。めぼしい観光地や、興味を引かれる施設など、何ひとつない。そのため、秋の連休だというのに、湖の周囲は閑散としていた。 お祭り騒ぎが好きな悠理にしてみれば、退屈極まりない場所である。しかし、清四郎と二人きりなら、話は別である。
どんな場所であろうが、彼がいるだけで、竜宮となる。 清四郎がいる場所こそが、悠理のいるべき場所なのだと、確信していた。
微かな音とともに、ドアが開いた。 そこから、一糸纏わぬ清四郎が現われる。
値千金の月光に照らされた恋人は、青く褪めて見えるのに、ひどく扇情的だった。
「やっと起きたのですね。身体は大丈夫ですか?」 そう言いながら、清四郎がベッドに近づいてくる。
彼の肢体は、本当に無駄がない。格闘家というより、武道家といったほうがぴったりくる。筋骨隆々としているわけではないのに、贅肉を削ぎ落とした身体は、歩行という単純な動きの中でも、鍛錬の成果を誇示する。 ベッドの中で抱き合っているだけでは、決して分からない、太腿の締まり具合や、歩行に合わせて動く手や肩の筋肉は、男独特の色気を醸し出している。高名な彫刻家でも、冷たい石から清四郎の美しさを彫り出すのは不可能だろう。 悠理は、その、男の美しさのすべてを備えた身体に、夜ごと啼かされているのだ。 改めて思うと、もの凄く恥ずかしくなり、悠理は青く沈んだ景色の中で、人知れず頬を赤く染めた。
清四郎は、ベッドの傍まで歩み寄ると、親指でドアの向こうを指した。 「大丈夫なら、一緒にシャワーでも浴びましょう。汗まみれで、気持ち悪いでしょう?」 悠理の身体には、男の匂いが染みてはいるが、嫌いな匂いではない。逆に、離れていても清四郎に包まれているようで、好ましく思っていた。 でも、これから二日の間は、ずっとずっと一緒にいられるのだ。そう思うだけで、自然と顔が緩んでくる。 「まだ立てない。」 甘えた声を上げて、彼の首に両腕を絡める。 「じゃあ、どうします?」 清四郎はそう言いながらも、既に悠理を押し倒しにかかっている。 「もう少し・・・こうしていたい。」 彼の手が肌を滑るだけで、身体が熱くなる。 「悠理は、ベッドの中だと、甘えん坊になりますね。」 皮肉混じりの吐息が、耳朶で響いて、脳髄を蕩けさせる。 「だって・・・好きなんだもん。」 「僕が?それとも、これが?」 摺り寄せられる、男の昂ぶり。先ほど愛し合ったばかりなのに、もう準備は整っている。 「・・・馬鹿。」 言葉はそこで途切れ、二人は深いシーツの海に沈んだ。
明け方にシャワーを浴びて、バスローブを羽織ったままの恰好で、デッキに出てみた。 清四郎は、まだ、シーツの海の中で、まどろんでいる。
九月末の、冷気を孕んだ空気が、熱い飛沫を浴びたばかりの身体に心地良い。うんと背伸びをして、デッキの向こうに広がる景色を眺める。 朝靄に沈んだ湖と、その上に広がる薄墨色の空のせいか、まるでモノクロ写真の中に迷い込んだような気分に陥った。二階にいるから、視点が高くなって、余計に不可思議な光景に見えるのだろう。悠理は、情事のあとの気だるさを、身体の奥に抱いたまま、ぼんやりと景色を眺めていた。
肌にも感じない程度の風が吹き、靄が動く。 瞬間、湖岸が真っ赤に浮かび上がった。
彼岸花だ。
湖岸を、ぐるりと彼岸花が覆っている。
モノクロの景色の中で、毒々しい赤だけが、酷く浮いて見えた。
綺麗なのは確かだが、誰もいない、時間の停止したような景色に、薄気味悪さを覚える。 そういえば―― 確か、この湖は、赤姫湖といった。 なるほど、湖底から赤い着物を纏った美しい主が現れてもおかしくない雰囲気である。 ぞくり。 己の想像に、悪寒が走った。
急激に冷えていく身体を両腕で抱き、慌てて部屋へ戻ろうとしたとき、別荘の右手から、どやどやと粗暴な気配が近づいてきた。 早朝から何ごとだと首を伸ばすと同時に、建物の陰から三人の若者が現われた。見るからに素行のよろしくなさそうな輩である。そういえば、昨夜、遠くでバイクの爆音がしていた。きっと、夜通し遊んでいたのだろう。
若者たちが、二階のデッキに佇む悠理に気づいた。 バスローブを羽織った悠理を見た途端、彼らの眼に獣の色が浮かぶ。
あからさまな視線に悪寒を覚え、悠理はすぐさま踵を返して、清四郎がいる部屋へと飛び込んだ。後ろ手で窓を閉め、ふうと息を吐く。 「・・・どうしましたか?」 ベッドの中から、気だるげな声が聞こえてきた。 額に落ちた髪の間から、漆黒の瞳が覗く。悩ましげな吐息が漏れる口から、清潔な白い歯が零れ、悠理は思わずごくりと息を呑んだ。 男の素顔を見ることが出来るのは、悠理だけに許された特権であるものの、清四郎の濃厚な色気には、いつまで経っても慣れないのだ。 「こんな朝っぱらから、変な男どもが外にいるんだよ。」 清四郎が上半身を捻り、ついた肘の上に頭を乗せる。悠理は、当然の如く、彼の胸元近くに腰を下ろし、起き抜けの男の頬をそっと撫でた。 「朝から変な眼で見られちゃって、嫌な気分。ここにいる間は、清四郎の顔だけを見ていようと決めてたのに。」 「それはこちらの台詞です。」 清四郎は不機嫌そうに呟くと、顔を動かして、頬を撫でる悠理の指に噛みついた。 「ここにいる間は、互いだけを見ているつもりだったのに、そんな色っぽい姿を、他の男の眼に晒すなんて・・・許せないな。」 冗談とも、本気ともつかない口調でそう言うと、男はむくりと起き上がった。
薄い肌が、筋肉の形そのままに隆起して、見事な造形を作り上げている。朝日にも満たない、淡い光の中に浮かび上がるその姿は、まるで神の創造物かのよう。 彼のほうこそ、悠理の何十倍も色っぽい。心の中でそう反論しながら、逞しい胸に顔を埋めて、思い切り甘える。 「罰として、一緒に風呂へ入って、僕を隅々まで洗ってください。」 「隅々まで?」 「そう、隅々まで。」 ふたりはくすくす笑いながら、くちびるを重ねた。
ぽちゃん・・・ 赤姫湖の水底で、何かが蠢いた。
しかし、湖畔で享楽に溺れる悠理たちが、それに気づくはずもなかった。
日が昇ってから、悠理と清四郎は、揃って買い出しに出かけた。 最寄のスーパーまで、歩いて三十分。都会にいれば歩くのを厭う距離だが、人口や建物の密度が違う田舎では、苦になる距離でもない。 手を繋いで、彼岸花が咲き乱れる湖畔沿いの道を、のんびりと歩く。 帰り道は、悠理の化け物じみた食欲を満たすための食料で、両手が塞がるのが分かっていたから、手を繋げる行きの時間が、堪らなく大事に思えた。
空の青と、湖面の青。草木の緑。そして、彼岸花の赤。 隣には、穏やかに微笑む清四郎がいる。 眼が痛くなるほどの、鮮烈なコントラストに、思わず眼を細めた。
幸せすぎて、眼が眩んでしまいそうだった。
しかし、道沿いに繁る大木の傍まで来て、悠理は、道の真ん中に居座る生き物を見つけた途端、ぎゃっと悲鳴を上げて、繋いだ手を離してしまった。
道を塞ぐように、大きな蛇が横たわっていたのだ。
蛇は悠理の天敵である。見ているだけで、全身に怖気が立つ。 悠理は咄嗟に小石を拾い、蛇に向かって投げつけた。 小石は、鈍い音を立てて、蛇の頭近くに命中した。 「何をするんですか!?」 清四郎が非難の声を上げた。 「大人しい青大将ではないですか!無毒なくらい、貴女なら見ただけで分かるでしょう!?」 「やだっ!蛇はみんな嫌いだもん!」 「だからって、いきなり石を投げることはないでしょう!」 蛇は苦しげにのた打ち回ったあと、ずるずると身を引き摺りながら大木の下に繁る草叢に消えてしまった。
蛇が消えたあと、二人の間に嫌な空気が流れた。 「・・・悠理、いくら嫌いでも、懸命に生きている動物を苛めるのは、いけないことですよ?」 幼い子を諭すように、清四郎が優しい声で話しかけてきた。 「・・・だって、怖いんだもん・・・」 清四郎に、蛇がどれだけ怖いかなんて、判るはずがない。悠理が不満まじりの声で答えると、清四郎は、くすりと笑って、悠理の頭を掻き回した。 「僕がついているから大丈夫です。怖がる必要などありません。」 その言葉に、男の愛情を感じ、悠理は嬉しさを隠しきれず、清四郎の腕に飛びついた。
「あれ?今朝のお姉ちゃんじゃんか。」 背後から聞こえる声に振り返ると、今朝の若者たちが、少し離れた場所で、揃ってニヤニヤしていた。 清四郎が秀麗な眉を顰めて、行きましょう、と、悠理を急かす。
歩き出した途端、清四郎の肩を、男の一人が掴んだ。
「昨日は朝までお楽しみだったんだろ?俺たちにもおすそ分けしてくれよ。」 違う男が、悠理の手を掴む。 「こんなに可愛い彼女を独り占めにしたら、罰が当たるぜ。」 「何なら俺たちが罰を当ててやろうか?」 下品な笑い声が、清々しい朝の空に響き渡った。
悠理と清四郎は、眼と眼で合図をし、問答無用で男の手を払った。
軽く身体を動かし、適度に筋肉が解れた。 お陰で、両手を塞ぐ大量の食料も大して苦にならず、予定よりも早い時間に別荘まで帰りつけた。 「まったく、こんな風光明媚な土地にまで、あんな不逞の輩がいるのですから、日本の安全神話は完全に崩壊しましたね。」 清四郎が、テーブルに食材を置きながら嘆く。 「ま、ナイフや銃を持っていないだけ、まだマシじゃん。」 それに、と、悠理は続け、清四郎に擦り寄った。 「朝っぱらからフジュンイセイコーユーする、インランな若者もどうかと思うぞ。」 清四郎は、くすりと笑い、悠理の手の甲にキスを落とした。 「その気のない男をその気にさせる、淫乱な貴女が悪いんですよ。」 そして、二人は、声を立てて笑い合った。
まさか―― 二人の知らないところで、何かが起こっているとは、夢にも思わずに。
ちゃぽん・・・ ちゃぽん ちゃぽん
暗い水底から、何かがゆっくりと這い上がってきた。
その日は、何事もなく、平穏に終わった。
今晩も、雲ひとつない夜空が、天空いっぱいに広がっており、二人は開け放った窓辺にシーツを敷いて、時間を忘れて群青色の景色を眺めていた。
「悠理・・・この湖にまつわる伝説を、知っていますか?」 清四郎が、優しい声で問う。悠理が首を左右に振ると、清四郎はふっと微笑んでから、まるで独り言のように語り出した。
「昔々、湖のほとりに、美しい姫が住んでいたそうです。姫には相思相愛の恋人がいて、将来はきっと一緒になろうと約束をしていたのですけど、ある日、姫に横恋慕した男が、姫に向かって、自分の嫁にならなければ恋人を殺すと脅した。姫は、恋人の命を救うために、泣く泣く男の嫁になった。なのに、姫の恋人は、無残にも殺されてしまうんです。それを知った姫は、嘆き、哀しみ、怒りに狂いました。恋人のために好きでもない男の嫁になったのに、約束は違えられ、恋人が殺されてしまった。姫は男を呪いながら、この湖に身を沈めた。その後、姫の呪いか、男は一族もろとも滅んでしまいます。しかし、姫の嘆きは止まらず、未だに湖の中から咽び泣く女の声が聞こえるそうですよ。」
ざざあっ。 風が吹き、湖面が揺れた。
悠理は思わず清四郎に抱きついて、ぎゅっと眼を閉じた。
「怖いのですか?ただの伝説ですよ。」 からかいながらも、悠理をしっかりと抱きしめてくれる腕の頼もしさ。 彼の皮肉な優しさが、愛しくて堪らなかった。
「伝説って言ってもさ、納得がいかない話だよね。」 清四郎の胸に凭れたまま、青く沈んだ景色を眺める。 「いくら好きな男を助けたいからって、どうして嫌いな男に抱かれるんだろう?あたいなら、絶対に我慢できない。自分の身体を犠牲にするくらいなら、一緒に逃げれば良かったのに・・・」 「きっと、横恋慕した男は、権力者だったのですよ。姫と恋人が手に手を取って逃げても、すぐに捕まえられるような、ね。」 「それにしたってさあ、最初から諦めて、好きでもない男の嫁になって、結局は恋人も殺されて、自分も命を落としちゃうんだろ?そんなの、あたいは嫌だ。」 悠理は、愛しげに男の胸を撫でながら、言葉を続けた。 「清四郎以外の男に抱かれるなんて、絶対に耐えられない。他の男のものになるくらいなら、命を懸けて、清四郎と一緒に逃げる。」 「悠理・・・」 「あたいは、そのお姫さまみたいに、じっとなんかしていない。何が何でも、清四郎と一緒に逃げ切ってみせる。」 くすり、と清四郎が笑う。 「悠理は、強いですね。」 それに頷きながら、悠理は身を反転させて、清四郎の首に抱きついた。 「そうさ。あたいは、お姫さまみたいに、弱くない。」
突然、風が唸り声を上げて、部屋に飛び込んできた。
部屋じゅうを、獰猛な風が暴れまわる。 悠理と清四郎は風を避けるため、抱き合ったまま、床に伏せた。 僅かに顔を上げて外を見ると、木々が今にも折れそうなほど撓り、それまで銀板のように静かだった湖面は、飛沫を飛ばすほど激しく波立っていた。
風は、十秒ほどで、止んだ。
静寂が戻った室内に、二人の微かな息遣いが響く。 恐る恐る身を起こし、周囲を確かめると、テーブルにあったスナック菓子が床に散乱し、先ほど空にしたワインのボトルも、ベッドの傍に転がっていた。
「吃驚したぁ・・・今の、何?」 眼を丸くしたまま驚く悠理に、清四郎が答える。 「きっと小さな竜巻でも起こったのでしょう。」 自然の驚異に感心しながら、二人で散乱した菓子を拾い、部屋を片づける。食欲魔人の悠理が食物を食べずに捨てるなど、なかなかあることではない。きっと嵐がくると清四郎がからかい、悠理は頬を膨らませて恋人を睨む。
そんな、当たり前で穏やかな時間が、二人を包んで、ゆっくりと流れていく。
ぽちゃん
何処からか、水音が聞こえた。
音源を捜して、湖を振り返る。 しかし、そこには群青色に沈んだ景色があるだけで、動くものも、音をさせるものも、何ひとつない。ただ、静かな湖面が広がっているだけだ。
先ほどの風のせいで、屋根に溜まっていた水が滴ったとか、そんな程度のことだろう。 水音くらい、気にすることもない。
悠理は肩を竦めて、ふたたび菓子を拾うのに専念した。
湖面が揺らぎ、波紋が広がる。 水面が割れ、何かがずるりと姿を現した。 濡れた足に踏まれた彼岸花が、ささやかな悲鳴を上げて折れる。
その足に、一匹の蛇が擦り寄ってきた。 闇にも融けぬ白い手が、蛇を絡め取って、己の頬へと導いた。 白い手に絡んだ蛇が、するりと頭を擡げ、何かを訴えるように妖しく揺れた。 蛇の首には深い傷があり、鱗が割れた部分から、白っぽい肉が覗いていた。
―― あの娘、許さぬ。
群青の夜に、鬼灯のごときふたつの眼が、爛々と輝いた。 その双眸は、湖畔に建つ大きな別荘のシルエットを、いつまでもじっと見つめていた。
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背景:自然いっぱいの素材集様