水底 ーみなそこー 

                     BY hachi様

 

 

 

 3.

 

 

 

 清四郎は、青い世界にいた。

 

弛緩した意識で、自分がどこにいるか、確かめようとしたが、目の前に何かがあるため、何も分からない。

目の前にあるもの―― それは、長い黒髪だった。

 

しゅ、と、何かが音を立てて蠢く。

 

その『何か』は、執拗に清四郎の下腹部を刺激していた。

 

「ああ・・・」

 

物質的な刺激に反応して、思わず歓喜の息が漏れる。

すると、『何か』の動きが激しくなった。

激しい刺激に、清四郎はさらに呻いた。

 

微かな呻き声をあげ続ける清四郎の頬に、白い手が伸びてきた。

白い手は、うっとりと清四郎の頬を撫で、そのまま首筋へ、そして、胸部へ落ちた。

胸まで弄られ、清四郎は激しく喘いだ。

 

相手が、悠理ではないことは、確かだった。

悠理の身体は、どこもかしこも、温かい。

こんなに、冷たいはずがない。

 

「ゆ、うり・・・」

 

清四郎が漏らした呟きは、気泡となって、消えた。

 

 

そして、清四郎の身体は、暗い水底へと沈んでいった。

 

 

 

 

恐怖よりも、羞恥よりも、口惜しさよりも、何よりも。

 

嫌悪感が、勝った。

 

「何をしやがるっ!!」

悠理は、蛇の呪縛に勝る力で、思いっ切り男の腹を蹴飛ばした。

男は人形のように吹き飛び、壁に叩きつけられた。

がん、と大きな音がしたのは、男が頭を強打したためか。

しかし、悠理には、そんなことはどうでも良かった。

 

悠理は涙を浮かべたまま、ベッドの上に、すっくと立った。

呪縛をも跳ね返す勢いに恐れをなしたのか、身体に絡んでいた蛇たちは、一匹残らず消えていた。

悠理は、全裸であるのも忘れ、男たちを睨みつけた。

それまで大人しかった女が、いきなり反撃したものだから、残る二人は、完璧に度肝を抜かれ、ぽかんとしている。

「てめえら・・・よくも、よくも・・・」

怯む男のひとりを捕まえ、その細い顎に、強烈なアッパーカットを喰らわせた。そして、背後から襲い掛かってきた、残るひとりを、身を屈めて軽く避け、無防備な胴体の、しかも柔らかな鳩尾を狙って、捻りを加えた拳を突き入れた。

 

一瞬で、勝負は決まった。

 

悠理は全裸のまま、一撃で伸した若者たちを、がんがんと足蹴にした。

大きな瞳に、いっぱいの涙を溜めながら。

「あたいの身体はなあ、清四郎しか触れたら駄目なんだっ!清四郎だけしか見られないんだぞっ!それを、よくも、よくも・・・てめえら全員地獄に堕ちろっ!!」

 

いくら蛇に束縛されていたとはいえ、無抵抗なままに、清四郎以外の男に裸を晒すなど、死にたいくらいの屈辱だった。しかも、清四郎にしか見せてはいけない部分まで見られたのだ。自分が情けなくて、清四郎に申し訳なくて、やるせない気持ちになる。それを怒りに変換させて、悠理を輪姦しようとした男たちに、容赦ない鉄槌を幾度も振り下ろした。

 

しかし、男たちにかまけている暇はない。

 

悠理は涙を拭い、窓の外を睨んだ。

清四郎は、湖にいる。

野生の勘が、そう告げていた。

 

先ほどまで着ていた服は、ビリビリに引き裂かれたため、袖を通すのは不可能だ。かといって、バッグから着替えを出す時間も惜しかった。

悠理の膝を開いた男のシャツを拾い、それを羽織る。

それから、男たちの腹部を力任せに蹴り、最後に、鼻骨に踵を落とし、止めを刺した。

「さっきのは、あたいのぶん。それで、今のは清四郎のぶんだ!思いしれっ!!」

吐き捨てるようにそう言うと、裸足のまま外へ飛び出した。

 

 

真っ暗な別荘の庭を横切り、湖畔へと出る。

 

眼前に広がる湖は、夜の闇に沈んでいた。

 

水際で足を止め、ごくり、と息を呑む。

暗い湖は、際限なく続いているようで、余計に恐怖を掻き立てる。

 

緋砂が、何者かは分からない。

何が目的で、清四郎を連れ去ったのかも、分からない。

加えて、この広い湖のどこに清四郎がいるのかすら、分からないのだ。

 

でも―― 湖のどこかに、清四郎は、いる。

 

清四郎への想いが、闇と、水と、得体の知れないものへの恐怖に、打ち勝った。

 

悠理は大きく息を吸い込むと、そのまま湖に飛び込んだ。

 

 

 

 

夜の帳が下りた、真っ暗な湖で、悠理は、潜っては浮上し、また潜っては浮上しながら、懸命になって清四郎を探していた。しかし、いくら呼んでも叫んでも清四郎からの応答はなく、その姿も、闇に邪魔をされ、見つけることができない。

まさか、既に緋砂の手にかかって、湖の底に沈んでしまったのだろうか?

嫌な想像を振り切り、清四郎を探して、さらに泳ぐ。

いつしか岸は遠く離れ、湖の中央近くまで進んでいた。

 

「せいしろ・・・清四郎!どこ!?」

 

悠理の絶叫が、静寂に支配された湖面に響き渡る。

九月とはいえ、山の湖水は冷たい。

体温はあっという間に奪われ、手足は鉛を仕込んだかのように、重く痺れていた。

それでも悠理は、冷たい水の中で必死に手足を動かし、清四郎を探し続けた。

 

 

突然、足に何かが絡みついた。

「うわ!?」

悠理の悲鳴は、水中に消えた。

 

悲鳴が気泡となり、ごぼごぼと音を立てて、耳元を通過した。

湖に引き摺り込まれ、そのまま、暗い水底へと沈んでいく。

もがいて伸ばした手は、自分が吐いた気泡を掴んだだけだった。

 

肺腑から、最後の酸素が押し出される。

苦しくて流した涙も、湖水に紛れる。

空気の代わりに、水を吸い込もうとしたときには、悠理の意識はすでに途切れていた。

 

悠理が最後に見たものは、青い、ただ青い、湖中だった。

 

 

 

 

悠理が改めて空気を吸い込んだとき、あまりにも苦しくて、激しく咽た。

げほげほと咳き込みながら、何とか上半身を起こす。

身体が冷たくて、震えが止まらない。

寒いのは、濡れているからだけではない。九月とは思えないほど冷えた場所にいるのだ。

凍える身体を抱きながら、周囲を見渡してみるものの、辺りは闇に包まれている。それも、鼻を抓まれても分からないほどの、真の闇だ。

「・・・せいしろ・・・せいしろ・・・清四郎ぉ!!どこぉ!?」

悠理の絶叫は、四方八方にわんわんと反響して、鼓膜に跳ね返ってきた。

足元は固く、ごつごつしている。手で探ってみると、足元だけでなく、触れる範囲すべてが岩で覆われていた。空気は冷たいのに湿っていて、あちこちから水が滴る音がしている。

 

どうやら―― 悠理は、洞窟のような場所にいるらしい。

 

でも、いったいどうして?

悠理は湖を泳いでいたはず。湖中に引き摺り込まれて、息がつまって意識を失っていたのだ。自力でこんな場所に辿り着けるはずがない。

 

答を模索していると、遠い闇が、ほう、と仄かに白く浮かんだ。

仄かな白さでも、闇の中では、陽光よりも明るく感じる。

悠理は、闇に眼を凝らした。

 

白いものは、ざわざわと蠢いている。

さらに眼を凝らす。

 

それが、人影らしいと分かった瞬間、周囲が急に明るくなった。

 

青白い火の玉が、何もない空間から次々と現れ、燃え上がったのだ。

 

一気に明るくなったため、眼が眩む。

悠理は眼を瞬かせながら、人影を追った。

火の玉は列を作り、悠理と人影の間を繋いでいる。

 

そして、妖しい炎に浮かび上がった光景に、悠理は布を裂くような悲鳴を上げた。

 

「清四郎っ!!」

 

 

清四郎は、暗い岩窟の中、逞しい裸体を晒していた。

意識がないのか、ぐったりとしており、瞼は伏せられたまま、ぴくりとも動かない。

しかし、悠理が悲鳴を上げたのは、それが原因ではなかった。

 

彼の裸身には、人の身の丈を軽く越した、一匹の白い大蛇が絡みついていたのだ。

 

 

 

 

しゅ、と音がして、大蛇が動いた。

清四郎の下腹部の翳りが、大蛇の腹の後ろに、見え隠れする。

蛇の胴は、彼の太腿の間に入り込んでおり、ゆっくりと前後左右に動いていた。

 

蛇の蠢きに合わせ、清四郎が喘ぎを漏らす。

まるで―― 愛撫されているかのように。

そう思った途端、全身が粟立った。

 

「清四郎っ!清四郎!!」

悠理の絶叫が、岩窟にこだまする。

いくら呼んでも、清四郎は目覚めない。

男の太腿の間に潜り込んだ蛇体は、休むことなく、蠢いている。

吐き気を催す光景に、悠理は思わず眼を逸らした。

 

助けたいのに、身体が竦んで動かない。

小さな蛇でも怖いのだ。ましてや相手は大蛇、対峙しているだけで、恐ろしさのあまり卒倒しそうだ。何とか気絶を免れているのは、清四郎が絶体絶命の危機に晒されているからである。

しかし、いくら悠理が目覚めていようとも、恐怖に竦んでいては、彼を助けることなど不可能だ。せめて武器でもあれば、なけなしの勇気も振り絞れるのだろうが、今の悠理は丸腰どころの騒ぎではない。着衣は薄いシャツのみ、手足は凍えて、動かしたくても動かせないのだから。

 

 

―― 好きな男を救えぬ気分はどうじゃ?

 

緋砂の声が、頭蓋に響いた。

悠理ははっとして、眼を開けた。

 

「他の男に、身を穢された気分は、どうじゃ?」

 

いつの間にか、大蛇の上半身は、緋砂へと変化していた。

 

 

朱色の衣の裾から、大蛇の胴が覗いている。

下半身は、蛇のままなのだ。

大蛇の胴は、まだ清四郎の下半身に巻きついていて、しゅ、しゅ、と微かな音を立てながら、妖しく蠢いている。

 

緋砂の手が、清四郎の胸に伸び、筋肉の感触を楽しむかのように、肌の上を這い回る。

「好い男じゃ。お前の恋人にしておくには惜しい。」

半人半蛇の緋砂は、くすくす笑いながら、意識のない清四郎に頬擦りした。

その、挑発的な行為に、悠理はかっとなった。

「化け物め!清四郎を離せ!」

「嫌じゃ。この男は、わたくしが貰う。お前などに返すものか。」

朱色の衣が、しゅ、と鳴って、清四郎の裸体を覆う。

「お前は酷い女じゃ。わたくしの眷族に礫を投げ、怪我を負わせただけでなく、酷い言葉を吐き、わたくしを愚弄した。その罪は、万死に値する。」

「あたいがいつお前を愚弄したんだよ!?それに、礫って―― 」

 

そこで、記憶が甦った。

 

昨日―― 悠理は、道を塞いでいた蛇に石を投げた。

石は蛇の頭近くに命中して―― 

 

「思い出したかえ?わたくしの首の傷は、お前が眷属に負わせた傷を移したものじゃ。」

 

緋砂のくちびるから、赤い舌が覗く。

その舌は、二股に細く分かれ、ちろちろと不気味に動いていた。

 

「お前は、この男に抱かれながら、わたくしを愚弄し、嘲った。踏鞴場の人々のため、愛しきひとのため、我が身を捨てた、わたくしを。」

 

蛇の舌が、清四郎の首筋を舐める。

白い手が、清四郎の腹を滑り落ち、繁みの中へと伸びた。

清四郎の口から、甘い喘ぎが漏れる。

悠理は堪らず叫んだ。

 

「止めろ!清四郎は何もしていない!あんたが怒っているのはあたいだろ!?なら、あたいに怒りをぶつけろよ!!」

 

ずぶ濡れの身体は芯まで冷え、足先の感覚など、とっくの昔に失っていた。

それでも悠理は、自由に動かぬ身体を必死に支え、よろめきながらも立ち上がった。

 

「・・・あんたが、大事なひとたちを守りたいって思っていたことは、よく分かった。あたいだって、清四郎を守るためなら、命だって賭けられる。」

悠理の言葉を聞いて、緋砂は嘲るように声を立てて笑った。しばし笑ったあと、急に真顔へと戻り、もの凄い形相で悠理を睨む。

「分かっただと?何が分かる?お前に、わたくしが受けた屈辱など、分かるはずがない!」

 

緋砂の手が、真っ直ぐに、悠理のほうへ伸びた。

その瞳の中は、気づかぬうちに、蛇のように細くなっていた。

 

「見せてやろう。わたくしの、尽きぬ恨みの根源を―― 」

 

緋砂の低い声が、岩窟に響き渡った。

そして、残響が消えた瞬間、悠理の頭の中が、真っ白になった。

 

 

 

 

脳裏のスクリーンに、早回しの映像が流れ出した。

昔々の、長閑な景色。

踏鞴場の炎。絶え間なく続く、ふいごや鍛冶の音。

活気に満ちた集落。陽気な人々。

ささやかな、暖かい暮らしが、そこにあった。

湖は、人々の暮らしに溶け込み、穏やかな色を湛えて、彼らの日常を見守っていた。

 

ともに湖畔を歩く、愛しい人。

水面の煌き。風にそよぐ緑の声。そして、愛しい人の横顔。

こちらが笑めば、向こうも笑む。それだけで、心が満ち足りた。

 

愛し、愛され、二人はとても幸せだった。

 

 

暗転する景色。

 

突然現われた、武士の一団。

蹴散らされる、平和な日常。

人々は、理不尽な理由で生活を踏み荒らされ、涙を流している。

その光景に、自分は激しい憤りを覚え、握った拳を震わせていた。

 

また、景色が暗転する。

 

囚われの身となった恋人。

自分は、彼の目の前で、数人の男に押さえつけられていた。

 

裸に剥かれ、悲鳴を上げる。

卑しい笑い声が、暗い部屋の中いっぱいに響く。

 

両手両足を力任せに開かされて、誰にも見せたことのない肌を、灯篭の明かりで照らされた。男たちの獣じみた視線が、肌の上を何度も往復し、卑猥な言葉を投げつけてくる。

許してと懇願しても、男たちはへらへら笑うだけで、決して許してはくれなかった。

 

涙に霞んだ眼で、恋人を見る。

恋人は、打ち据えられながらも、止めろ、止めてくれ、と、繰り返し絶叫している。

その顔は、血と涙に塗れていた。

 

武士の首領らしき男が、覆いかぶさってきた。

汗臭い肌が密着し、生臭い息をかけられ、耐え切れぬ嫌悪感に絶叫する。

死に物狂いで両手足をばたつかせるが、それぞれを屈強な男たちに押さえつけられているため、どうしようも出来なかった。

 

無骨な手に弄られ、口惜しさと悪寒に、ひたすらに泣き続けた。

肌の上を蠢く舌の感触に耐え切れず、何度も、何度も、悲鳴を上げた。

 

貫かれた瞬間、激痛と絶望のあまり、意識が遠のいた。

 

行為は延々と続き、その間、幾度も気絶と覚醒を繰り返し、最後は、自分に意識があるのかどうかさえ、分からなくなっていた。

 

 

ようやく解放されたときは、何も考えられなくなっていた。

それでも、すっかり穢された身体を、掻き寄せた着物で隠したのは、茫然自失の中であっても、こんな姿を愛しい人に見られたくはないと思ったからだろう。

 

もう、すべてが終わった。

恋も、未来も、人生も、すべてを失った。

 

だが―― 真の悲劇は、ここからだった。

 

恋人に、振り下ろされる刀。

血飛沫が飛び散り、離れた場所にいる自分の身体まで赤く染めた。

 

何が起こったのか、理解できなかった。

ただ、ただ、訳が分からぬまま、恋人の骸を前に、叫んでいた。

繰り返す絶叫に、咽喉が潰れ、叫ぶことすらままならなくなっても、叫び続けた。

 

 

暗転。

 

 

悠理は、茫然としたまま、湖のほとりを歩いていた。

 

口惜しい、哀しい、苦しい、恨めしい、厭わしい。

 

激しく渦を巻く感情。しかし、心は何も感じない。

愛しいひとを失った時点で、心は死んでいたのだ。

 

 

叢から、一匹の蛇が現れた。

悠理の前を横切って、湖へと入っていく。

 

悠理は、蛇に導かれるように、湖へと足を踏み入れ、そのまま、没した。

 

 

薄れゆく意識の中、景色は、ただ、ひたすらに青かった。

 

 

 

 

気がつくと、悠理は泣いていた。

 

涙が次から次へと溢れて、止まらない。

 

目の前には、清四郎を束縛する、蛇身の緋砂がいる。

身の毛もよだつその姿が、哀れで、哀れで、涙が止まらなかった。

 

彼女は、蛇身に成り果てるほどの絶望と苦痛を、味わったのだ。

 

「・・・ごめ・・・」

嗚咽が止まらず、声が上手く出せない。

悠理は腕で眼を擦り、滲む視界を元通りにしようとしたけれど、拭うそばから涙が溢れて、どうにもならなかった。

それでも、懸命に声を振り絞る。

とにかく、緋砂に謝りたくて。

「・・・ごめん、なさ・・・あたい、知らなくて・・・あんな目にあったら、誰だって、この世を恨むよな・・・」

 

清四郎を深く愛しているからこそ、緋砂の気持ちが、痛いほど分かった。

 

清四郎の目の前で犯され、清四郎が自分の目の前で殺されたら、悠理だって、怨嗟の念に支配され、人ならぬ姿に化身してしまうだろう。

 

緋砂が味わった絶望を思うと、涙が溢れて止まらなかった。

清四郎が囚われているにも関わらず、悠理は、彼女のために、涙を流していた。

 

 

 

 

 

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