素肌に黒毛皮を着て、黒髪に黒い猫耳をつけた、長身の美青年。 憎らしい、黒猫。
忘れたくとも、忘れられない。 深い森の奥で悠理が遭遇した異常な経験は、夢幻の記憶。だけど、それがまぎれもなく現実だったのだと、まだ彼の感触が残る体と心が告げている。
BLACK CAT 前編 BY フロ
お馬鹿な紳士・悠理が、ふたたびその料理店を発見するには、数日を要した。 店は同じ場所にあったのだが、お馬鹿なので、仕方がない。 「悠理、あの店か?見るからに怪しいな。ここら辺りには先月まではあんな店はなかったぜ」 悠理の同行者は、親友の魅録。彼は紳士録に『警邏官』と肩書きが付く。
『西洋料理・山猫軒』
店主の謎の青年に、悠理が好き放題”戴かれて”しまってから数日。 悔しくて、悔しくて。 だから、といって、警察に訴え出た結果の、魅録同行ではない。 夢うつつのまま森から出てしまった悠理が自力で店を探せなかったため、猟師としても森に詳しい魅録の助力を頼んだのだ。魅録には、人を惑わす怪しい店がある、とだけ告げている。 たしかに、悠理は惑わされたのだ。 あの、注文の多い料理店に。
「おい、店の前に誰かいるぜ!」 魅録の指摘に、悠理の体に緊張が走った。 激しく胸が高鳴る。 広い背。長身。黒い外套の男が、扉の前にこちらに背を向け立っていた。
悠理の心臓は口から飛び出してしまいそうだった。 思わず悠理は自分の胸元を掴む。ドキドキする胸の前で懐中時計がチクチク動く。 時間が遡り、胸のうちで鮮やかに蘇る記憶。 体の震えが止まらない。 ビロードのような黒い毛皮に覆われた手が、悠理の肌を滑った感触。 ざらざらの舌があとを追う。 黒曜石の瞳が、悠理の魂を捕らえ、掴みあげる。
幻惑。
「悠理、奴か?」 魅録が悠理の肩をゆすった。男がこちらに顔を向けたのだ。 「・・・!!」 悠理の全身から力が抜けた。
横幅の広いあばた面。細い目。ぶ厚いタラコ唇。外套に覆われた体も、細身の彼とは似ても似つかない大男。
「・・・ぜんぜん違う!」 悠理は不快さにぶんぶん首を振った。 比べたくもない。あの憎らしいほど美しい彼とは。
木陰で様子を伺っていた悠理と魅録に、大男も気づいたようだった。ノシノシこちらに向ってやってくる。 「なんや、あんさんら?」 「あ、あんたこそ!」 大男の見上げるほどの大きさとインパクトのある御面相に気おされながら、魅録はチラリと猟師服の襟の裏側に隠し着けている警邏官の紋章を見せた。 「!・・・山猫軒を張ってるんか」 男の細い目が納得の色を浮かべた。 「清四郎ハンが、警察なんかに捕まるかいな」 ふふん、とへしゃげた鼻をうごめかす大男に、悠理は詰め寄った。 「”清四郎”?!あいつ、あの黒猫男、そういう名前なのか!」 悠理の剣幕に、男は悠理をジロジロ見つめた。 「・・・なるほどな。あんさんも、清四郎ハンにいかれた口やな」 悠理は真っ赤に頬を染める。 「ち、ちがっ・・・」 「わかるわ〜〜、ワイもそーやもんvv」 「いっ?!」 悠理は愕然と目を剥いた。
正直。 あの黒猫男は、いろんな男女をその毒牙にかけているとは、思っていた。悠理にしたように。 だからこそ、許せなかった。悔しくて、苦しくて。許せないと、思った。
――――素晴らしい・・・あなたは最高だ。 あの男は何度も悠理の体を味わいながら、そう言ったけれど。 ――――癖になってしまいそうですよ。放せそうにない。
薬の効能が切れ、悠理がようよう逃げ出したとき、彼は気づいていたのに追っては来なかった。 朝もやの森の中で、悠理を見送った男の影。 ずっと胸に染み付いて消えない姿。 あの言葉を信じてなどいなかったのだけど。 だけど、まさか。このあばた面の大男まで、料理して食ってしまう悪食だったとは。
「清四郎ハンはすぐに姿をくらませるから、追うのは大変なんや」 悠理が愕然と固まっている間も、男はとうとうと語り続けていた。 「この森には、結構長いこと店を開いてはるけど、ワイが行ったらいつも閉店や。かなんわぁ。せめて一目姿を見せて欲しいわ」 「閉・・・店なの?あいつ、居ないの?」 「なかなかワイに会うてはくれへんのや。以前違う町で店出してたときは、通い詰めたもんやけど」 「か、通い詰めた?!だって、おまえ・・・その、あいつにアンナコトやソンナコトされたんだろ?」 「なんだよ、悠理。アンナコトって?」 怪訝顔の魅録の前で、悠理はもじもじ。 大男は悠理の言わんとするところがわかったようだった。 「そりゃ、ワイも最初は服脱がされて騙されて、腹が立ったけどな。けど・・・・」 大男も赤面し、自分の太い体を抱きしめてもじもじ。 「けど、あの白い器用な手で握ってもらって・・・天国を知ってしもうた。一度知ったら、もう忘れられへん!」 大男の言葉で、悠理の顔からは血の気が引く。 「お、おまえが奪われたんだろ?あいつだけがいい目を見たんじゃないのかよっ」 言いながら、悠理の内部で、違う、と声がした。 悠理自身も忘れられないから。知ってしまった甘美な快楽。 「清四郎ハンにやったら、奪われてもええんや。ワイかて、美味しい思いさせてもらったしな。透明なあの肌!人肌の温もりを舌で味わったあの感覚!ああ・・・清四郎ハンの力強い腕を忘れられへん。背徳の味は、一度味わったら、元の自分には戻られへんのや!」 身悶えする大男の前で、悠理はよろりと傾いだ。 魅録があわてて支えるが、あまりの衝撃に立っていられない。口を押さえ、草地に膝をついた。 吐き気。いや、目の奥がつんとして溢れ出てくるのは、涙。
どれくらい、そうしていたのか。 「悠理、悠理、大丈夫か?」 魅録がずっと背中をなで続けてくれていた。 気づくと、大男の姿はもう消えていた。逢魔が刻の薄闇が森を覆っている。 誰かの視線を感じ、悠理は顔を上げた。 真正面に見える、山猫軒の建物。 悠理が顔を上げたことが合図だったように、店先に灯かりが灯った。
「・・・・開店、したようだぜ?」 魅録が訝しげに目を細めた。 ガラス扉の向こうで、黒い影が揺れたように見えた。
悠理はふらふらと立ち上がった。 引き寄せられるように足を進める。
『西洋料理・山猫軒』
あの、憎らしい、黒猫の影に向かって。
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