ラビリンス

BY 琥珀様

 1.復讐

 

 決行の日。

 ダイニングルームにはあたしと清四郎、兄ちゃんが座っていた。父ちゃんと母ちゃんは仕事でアメリカに行って留守だ。清四郎と兄ちゃんは仕事の話をしている。あたしは無言で朝食を食べていた。ここ一ヶ月あたしと清四郎は口もきいていない。そのことを、もうどうにも思わないようにしていた。

 予定通り、電話がなる。

「若奥様に、松竹梅様からです」

と、メイドがうやうやしく子機を持ってくる。

「もしもし。・・・何?モンブランでスキー!?千秋さんと?可憐が来られなくなった?

・・・うん。うん。・・・魅録と一緒なら思いっきり遊べるもんな。もちろん!行くに決まってんじゃん。・・・三時に空港?オッケー」

 清四郎の視線を痛いほど感じる。

 あたしと魅録が二人きりで会うって思い込んでるに違いない。

「五代〜。名輪に二時に車って言っといて〜」

あたしはうきうきとした感じに見えるように叫ぶと、ダイニングルームを飛び出した。兄ちゃんが視界の隅でうなづくのが見えた。

自分の部屋に戻って、可憐と野梨子にメールを打つ。

“予定通り”と。

 

三時に空港に着くと、魅録、可憐、野梨子の三人がもう既に揃っていた。

「美童にも連絡しておきましたわ。予定通りシャモニーに向かうと返事が来ました」

野梨子がにっこり微笑んで言う。

「万事、OKだな」

「じゃあ、行きましょう」

 

モンブランの麓、シャモニーにある剣菱の別荘についたのは、翌朝、まだ早い時間だった。少し仮眠をとって、あたしと魅録はスキーへ、野梨子と可憐はスパへ。美童は夜に合流する予定。

あたしたちがたっぷり遊んで、夕方別荘に戻った時、そこには思った通り清四郎が待っていた。

「あれ?清四郎、どうしたの?」

あたしはわざとらしく、満面の笑みを浮かべて無邪気そうに聞く。

「豊作さんが、気を使ってくれたんですよ。最近、僕らがあまり一緒に過ごしていないようだからって」

清四郎はあたしの笑顔にちょっとむっとしたようだった。

そりゃそうだ。

一ヶ月近く、あたしは清四郎に笑顔なんか見せてない。魅録と一緒だから、機嫌がいいと勘違いしているのが良くわかる。

「でも、僕はお邪魔でしたか」

清四郎はそう言って、ちらっと魅録を見た。

「何勘違いしてんだよ。可憐や野梨子も一緒に来たんだぜ。夜には美童も来る予定だ。久しぶりに六人揃って宴会だな」

清四郎の肩を魅録が軽く叩く。清四郎の顔が一瞬だけ強張ったのがわかった。

「可憐と野梨子も・・・ですか」

可憐と野梨子には、あたしの前で会いたくないよなぁ、清四郎?

心の中でつぶやきながら、あたしは、さらに無邪気そうに笑ってみせる。

「楽しみだなっ」

 

魅録が着替えてくると言って自分の泊まる部屋へ引き取ったあと、あたしも自分の部屋へ戻ろうとして、清四郎に腕を掴まれた。

「話があります」

「あたしもある」

真っ直ぐに清四郎の黒い瞳を見つめて言う。

吸い込まれそうな深い黒い瞳。内にどんな感情を隠しているのか、読み取ることはできない。

負けるな、剣菱悠理。あたしは自分に言い聞かせる。あたしは強くならなきゃいけない。

「でも、お前と二人きりじゃ、またビンタされるかもしれないからな。みんなの前で話す」

「僕たち夫婦のことですよ」

「あいつらに今更そんな遠慮は無縁だろ。お前だって、野梨子に夫婦の悩みごとをあれこれ聞いてもらってるみたいだし。あたしだって魅録や可憐にいろいろ相談してる。とにかく、あたしは、お前と2人きりになりたくない」

きっぱりと言い切ると、あたしはそのまま黙って清四郎の顔を見つめ続けた。

あたしの決心を感じ取ったのか、清四郎はあたしから目を逸らした。

「わかりました。じゃあ後で」

 清四郎の腕を振り払って、自分の部屋に入ると、念のため鍵をかける。そのまま、扉に背を預けてずるずると座りこんだ。

 

あたしたち、なんでこんなことになっちゃったんだろう。

どこで、何を間違えたんだろう。

 

ずっと考え続けている疑問。頭の悪いあたしには、答えはわからない。

いつでも助けてくれた清四郎に教えてもらうことはできない。

 

あたしたちは、聖プレジデント学園を卒業して、聖プレジデント大学に進学した。あたしが経済学部を選んだことに皆はびっくりしていたけど、あたしは清四郎も同じ経済学部を選んだことにびっくりした。

「どういう風の吹き回しですか」

「お前こそ」

「いろいろ将来のことを考えているんですよ」

「あたしだって」

 あたしは、自分の人生を自分で決められるようになりたいと真剣に考えていた。母ちゃんの言うとおりに見合い結婚なんてまっぴらだ。単純なあたしが考えついた自分の将来は、剣菱の経営陣に入るということだった。そのために経済学部を選んだ。

 医者になるものだと思っていた清四郎が経済学部を選んだ理由はわからなかったけど、六人ばらばらになった大学で、清四郎と同じ学部になれたのは嬉しかった。

 同じ講義を選択し、同じ経営学のゼミを選び、あたしたちは(頭の出来は天と地ほど違ったけど)大学で一緒の時間を過ごすことが多くなった。そのうち、可憐と魅録が付き合い始め、野梨子が茶道の家元修行で忙しくなり、大学四年生になって美童が母国スウェーデンに帰り・・・プライベートでもあたしと遊んでくれるのは清四郎だけという状況が増えていった。

「悠理は大学を卒業したら、どうするつもりなんですか」

「剣菱に入るつもり」

「剣菱に!?

「あたしなりにいろいろ考えてるって言ったろ。あたしは、見合い結婚なんかしたくない。自分の人生は自分で決めたい。そのために、今頑張ってる。」

「へえ」

「お前、今心の中で馬鹿にしたろ」

「してませんよ。悠理にしては上出来だと感心してるんです」

「悠理にしちゃってのがひっかかるなあ」

「見合い結婚が嫌なのは前から知ってますけど・・・結婚そのものも嫌なんですか、相変わらず?」

「へっ?」

「僕と結婚を前提に付き合いません?」

「はあっ!?

 何だかすごく間抜けな会話の流れだったけど、清四郎の瞳の色がいつになく真剣だったから、あたしは笑い飛ばすことができなかった。

「お前、また剣菱狙いかよ」

 小さい声でそう言うと、清四郎は辛そうに目を伏せた。

「まあ、そう言われると思って、ずっと言えなかったんですけどね・・・。大学を卒業したら、悠理とこんな風に一緒に居られなくなると思うと辛いっていうか、その、つまり、・・・僕は、この先もずっと悠理と一緒に居たいと思っているんです。ただの友達としてじゃなく」

 いつも自信たっぷりで雄弁な清四郎が、下を向いてつっかえながらしゃべるのが珍しくて、あたしは何も言えずに、清四郎を見ていた。あたしがいつまでも黙っているものだから間が持たなかったのか、清四郎が視線を上げてあたしを見た。

「何で泣いているんです?」

清四郎がびっくりしてそう言うまで、あたしは自分が泣いてるって気付いてなかった。

「・・・わかんない」

 清四郎に抱きしめられて、髪をなぜられながら、あたしはただ泣くことしかできなかった。

ずっと心の奥に閉じ込めてきた清四郎への想いが報われたことが、まだ信じられなかった。

「返事はイエスだと思っていいんですね」

「・・・うん」

 

 あの時の、髪を撫ぜる清四郎の手の暖かさを、かすかに震えてた低い声の響きを、嘘だと思いたくない。

 だけど、本当は、あの時からあたしはだまされてたのだろうか。

 

 大学を卒業して、すぐ婚約。

清四郎は剣菱に入社した。

あたしは結局剣菱の社員になることはなかったけど、将来の社長夫人としての勉強を始めた。今度は自主的だったから、高校生の時のように逃げ出すことはしなかった。英語とマナーも勉強したし、父ちゃん、母ちゃんと剣菱系列のパーティーに出席して、主な取引先やうちの重役連中とも顔を合わせた。

母ちゃんの一世一代の準備の下、行われた結婚式。

清四郎とあたしは見世物になった気分だったけど、次の日、有閑倶楽部の連中が開いてくれたパーティーはほんとに楽しかった。清四郎はあたしに優しかったし、あたしは幸せだと心の底から思えた。

新婚旅行は世界中を回った。

ヨーロッパ、アメリカ、香港・・・仲間たちとの思い出の場所を二人で辿る旅の間、あたしたちはいろんな話をした。あの頃はああだった、こうだった、清四郎はこんな風に言ってたけど、あたしはこう思ってた・・・とか。

「僕は、悠理だけをずっと見てましたからね」

あれは何の話をしていた時だったか。清四郎が、あの時悠理はこんな物まで食べてましたよ、なんて言うので、よくそんなこと覚えてるなと言ったら、そう言い返された。いつものように脳の皺の数が多いんですって言われるとばっかり思っていたのに。

「何言ってんだよ」

 恥ずかしくて、怒ったふりしちゃったけど、本当はとても嬉しかった。

 

 ああ、なんでこんなに楽しかったことばかり思い出すんだろう。

 

 結婚して一年もたつと、清四郎は剣菱の中核として、大きな仕事を任されることも増えた。あたしはフランス語もマスターして、夫婦同伴の接待やパーティーで、清四郎をサポートできるように努力していた。そんな幸せだった結婚生活が壊れていったのは、パーティーでのあたしの失態がきっかけだった。清四郎が提携を希望していたアメリカの企業トップの接待で、あたしはそのトップをこともあろうに突き飛ばしてしまったのだ。

 肩を抱かれて胸を触られそうになったので、手を振り払ったつもりだった。

 ちょっと力を入れすぎた。

 そのエロ親父は派手に転び、骨折しただの、訴えるだのまくし立てた。

 父ちゃんは、そんなエロ親父の会社なんて提携しなくていいと言ってくれたけど。剣菱に入社して、初めての清四郎の大仕事を妻のあたしがぶち壊してしまった。もちろんあたしは平謝りだったけど、清四郎はなかなか許してくれなかった。落ち込むあたしに清四郎は、さらにとどめをさすようなことを言った。

「野梨子や可憐だったら、こんなみっともないことにはなってないでしょうね」

「野梨子や可憐が胸触られたら、お前だって怒るだろう!?あたしだったらいいのかよっ」

「可憐なら胸を触られそうになっても上手くかわすでしょうし、・・・野梨子なら、そもそも胸を触られるような隙を見せませんよ」

「全部あたしのせいかよ。じゃあ、お前、野梨子や可憐と結婚したらよかったじゃん!」

「それができたらそうしたかったですよ、僕も」

 そう捨て台詞を残して清四郎は部屋を出て行った。

 清四郎は婿養子じゃなかったけど、結婚してからもあたしたちは剣菱の家に住んでいた。清四郎には専用の部屋もあったけど、寝室はあたしの部屋をそのまま使ってた。

 その夜、清四郎はあたしの部屋に戻ってこなかった。

 清四郎専用の部屋にもベッドはある。

 あたしたちは、結婚して初めて別々のベッドで夜を過ごした。

 

 その日から、あたしたちは、何もかもがすれ違いはじめた。

 

 可憐はともかく、野梨子の名前を出されたのが、あたしには痛かった。

 大学に入ったばかりの頃、清四郎と野梨子は付き合いはじめた。野梨子が、清四郎に告白したのだ。でも、婿養子を望む白鹿流の親戚に反対され、あっという間にふたりの関係は終わったはず。

 あたしは、その頃には、自分が清四郎のことを好きだと何となく感じていた。友情じゃない特別な気持ちは、でも自覚したとたん胸の奥に閉じ込めるしかなかった。

 清四郎は、野梨子が好きだと思っていたから。

 幼なじみの二人には、だれにも入ることのできない深い絆がある。

 そう思っていたから、あの時、清四郎が、あたしとずっと一緒にいたいと言ってくれたことが信じられないくらい嬉しかったのに。

 やっぱり、だまされていたのだろうか。

 

 あたしは剣菱のおまけだったのだろうか。

 

 清四郎はそれから仕事に熱中し、家に帰ってくるのはいつも夜遅く。家に帰ってきても、コンピュータールームに閉じこもっていて、あたしと顔をあわせない日が続いた。

 

 あたしは、どうしたらいいのかわからないまま、何日間か過ごし、ふと可憐に相談しようと思いついた。

 野梨子には相談したくなかった。

 可憐に電話すると、それなら魅録の家で一緒に食事をしようということになった。魅録の家の家政婦さんがここのところ具合が悪く、可憐が夕食を作りに行ってるのだという。警察官になって忙しくしていた魅録に会うのは久しぶりだったので、あたしは嬉しくて何も考えず、魅録の家に出かけて行った。

 魅録と可憐も大学卒業と同時に婚約していたけど、魅録はまだ研修中で、結婚はもう少ししてからということだった。

 面倒見のいい二人は、あたしの相談に親身になってあれこれとアドバイスをくれて、あたしは、すぐにでも清四郎と仲直りできそうなくらい気分が良くなった。魅録がバイクで送ってくれるというので、あたしは楽しい気分のまま、剣菱の家に着いた。

「今日はありがと。楽しかった」

「悠理は笑ってるのが一番だ。悩み事ならいつでも聞いてやるから、清四郎の前ではそうやって笑ってろ。あいつだって、悠理の笑顔が見たいに決まってる」

「魅録ちゃーん・・・ありがと。愛してる」

「バ、バカッ。それは清四郎に言えよ」

「へへっ。じゃあね。可憐にもよろしくぅ」

「おう」

 

 ご機嫌で鼻歌を歌いながら、門をくぐると、ものすごく恐い顔をした清四郎が立っていた。

「・・・楽しそうですね」

「お、お帰り、清四郎。今日は早かったんだな」

 笑顔、笑顔。二人に言われたアドバイス通り、あたしは清四郎に笑って言った。それが清四郎を怒らせるとは思わずに。

「僕がお前のせいで大変な思いをしてるっていうのに、他の男に送られてきて、そんなに楽しそうにしてるなんて・・・」

「送ってもらったのは魅録だけど、可憐と3人でご飯食べてただけだぞ。魅録は明日も早いからって、酒も飲んでないし」

「何でそんなにムキになるんですか。何か疚しいことでもあるからですか」

 やましいこと?あたしと魅録に?

 清四郎の言ってることを理解するのに少し時間がかかった。

 やがて身体中の血が逆流して沸騰してるような気がした。

「お前、何言ってんの?・・・自分がそうだから、人のこともそんな風にしか見れないんだろう!」

「僕が何だって言うんです」

「・・・野梨子のこと好きなんだろう!今も!だから、あたしと魅録のこと疑ってんだ!魅録には可憐がいるんだぞ!あたしとやましいことなんて、そんなことあるわけないだろう!」

 あたしがそう言った時の清四郎の冷たい目。感情なんて失ったみたいな目。その目に見つめられて、あたしの身体も凍るかと思った。

「僕が、誰を好きだって?」

 強い力であたしの肩をつかむ。

「誰のために、こんな苦労をしていると思ってるんだ」

 その瞳が、あんまり無表情だったから。

 あたしは、たぶん、一番言ってはいけないことを言ってしまった。

「あたしを選んだのはお前だろう!嫌なら、離婚してやるから、野梨子の所へ行けばいいだろっ。それができないのは、剣菱が欲しいからだろ」

 

 最初のきっかけはあたしが作った。

 それはわかってる。

 だけど、その後、清四郎がしたことを許せるかどうかはまた別のこと。

 あたしは、清四郎を許さない。

 許しちゃいけない。

 

 すれ違いはじめたあたしたちは、それでもまだ夫婦として暮らしていた。顔を合わせることはなくても。

 あたしが、身体の異変に気付いたのは、もうあたしたちが話すこともなくなってからだった。

 あたしは、妊娠していた。

 あたり前の結果だ。あんなことになる前は、あたしたちは毎晩同じベッドで眠っていたのだ。清四郎は避妊していなかった。あたしも、別にそんなこと気にしていなかった。あたしたちは愛し合っている夫婦だと信じていたから。

 なのに、妊娠が分かった時、あたしはそれを清四郎にどう伝えればいいのか、分からなかった。喜んでくれるのかどうかさえ、自信がなかった。

 

 伝えていれば、結果は違っていたのだろうか。

 

 あたしは伝えることができなかった。悩んでいるうちに、名輪と五代の会話を聞いてしまったからだ。

「清四郎様が真っ直ぐ家に帰ろうとなさらないんです」

「どこかへ行かれてるのか」

「ご実家の前で車は降りられるんですが、・・・いつもお隣の白鹿様の門をくぐられているんです」

「あんな遅い時間にか」

「はい」

「むむぅ。このこと、若にも奥さまにも、もちろん嬢ちゃまには絶対言うでないぞ」

「もちろんです」

 

 聞いちゃったよ、五代。

 

 やっぱり、そういうことか。

 

 その夜、遅く帰ってきた清四郎を、コンピュータールームの前でつかまえた。

「どこにいってたんだよ」

「悠理には関係ありません」

「まだ夫婦だろ。それとも、剣菱をあきらめて離婚する気になったのかよ」

「疲れてるんです。喧嘩なら今度にしてください」

「わざわざ夜遅くに、何しに野梨子んちに行ってんだよ」

「何のことです」

「知ってんだよ」

 ふうとため息をついて、清四郎はあたしを見た。あきれたような、愛想をつかしたような顔。

「妻の義務は果たせないくせに、やきもちだけは一人前ですか」

「妻の義務って、まだあのこと怒ってんのか。あんなに謝ったろう。どうすれば、気が済むんだよ」

「あのことはもういいです。思い出したくありません。そうじゃなく、家事は満足にできない、かといって英語やマナーといった財閥のご令嬢らしいことも中途半端で、お前のような半人前、剣菱のおまけじゃなきゃ、誰が結婚してくれるっていうんです」

「だから、お前が、野梨子のことを好きで、こっそり会ってたとしても、文句も言わず黙ってろっていうのか。お前にとって、あたしはその程度の扱いってことかよ」

「そんなことは言ってません。大体、なんですか、その言葉遣いは。野梨子、野梨子って気にするなら、少しは野梨子を見習ったらどうですか」

「・・・清四郎の嘘つき!あたしとずっと一緒にいたいって言ったのは嘘だったんだ。やっぱり、あたしのこと、剣菱のおまけにしか思ってなかったんだ!」

「うるさいっ!」

 バシッと音がして、あたしは信じられない思いで自分の頬を押さえた。

 今、清四郎に、ビンタされた?

「・・・すまない。手をあげるつもりはなかったんだ・・・。疲れているから、一人にしてくれないか・・・」

 清四郎は、そう言ってコンピュータールームに入っていった。あたしの目の前で閉まる扉を見ながら、あたしは何も考えられずに、ただ立っていた。

 

 翌朝。

あたしは止まらない出血にびっくりして、和子姉ちゃんに電話した。和子姉ちゃんの手配した救急車で病院に運ばれたあたしは、想像通りのことを聞かされた。

流産していたのだ。

「初期の流産はね、胎児に問題がある場合がほとんどなの。悠理ちゃんが自分を責める必要はないのよ」

 そう言って慰めてくれた和子姉ちゃんは、あたしの赤く腫れた頬と、流産のことを知らせなくていいというかたくなな態度から、何かあったと察してくれたらしい。とりあえず特別室に入院の手続きをとってくれた。家には帰りたくなかったから、本当に有難かった。聞かれるまま、何があったか話していくうちに、和子姉ちゃんは怒りはじめて、「あいつに二度と菊正宗家の敷居はまたがせないわ」とか言ってた。ただ、野梨子とのことは、あたしの勘違いだと言った。

「アイツ、多分高校生のときから、悠理ちゃんのこと意識してたと思うんだけど。でも、そんなに好きで結婚した相手を、こんなにつらい目に合わせるなんて・・・。本当にごめんね、姉としても申し訳ないわ・・・」

「和子姉ちゃんが謝ることじゃないよ。それに、あたしにも悪いところがあったんだし」

「何言ってるの。女の子の顔に手を上げるなんて、どんな理由があっても許されることじゃないわよ。アイツには、私からもお灸をすえてやるから、一度きちんと話し合ったほうがいいわ。流産の事も、言わなきゃだめよ。悠理ちゃん一人が苦しむ事なんかないんだから」

 次の日、和子姉ちゃんは、とにかく誤解は解きましょうと、野梨子を病院へ呼んでくれた。

野梨子は可憐を連れて来た。

可憐は、げっそりしていて、とても辛そうだった。

野梨子は能面のような白い顔をしていた。・・・あんな野梨子には逆らえない。有閑倶楽部のメンバーならみんな知ってる。この顔は、本気で怒っている顔だ。あたしはそう思って、ちょっと怖かった。

でも、野梨子が怒っているのは、あたしではなく、清四郎だった。

あたしと可憐を傷つけた清四郎に対して、本気で怒っていた。

清四郎が、可憐をレイプしようとしたと、野梨子は言った。

最後まではいってない。でも、親友だと思っていた男からの暴力に可憐は傷つき、魅録に申し訳ないと泣いた。

あたしのせいだと思った。

清四郎は、あたしと魅録のことを疑っていた。こんな形で、魅録に復讐しようとしたのだ。魅録にも可憐にも申し訳なくて、あたしも泣いてしまった。

 

一体、あたしたちは、どこで間違ったんだろう。

あたしが、バカだからいけなかったんだって、清四郎は言うのだろうか。

じゃあ、アイツのしたことは・・・?

 

今夜、ここシャモニーの別荘での夜が六人で過ごす最後の夜になるかもしれないと思うと、あたしは泣いてしまいそうだった。

でも、あたしは強くならなきゃいけないんだ。

 

美動が到着して別荘には六人揃った。大きな暖炉のある広間であたしと清四郎は向かい合って座っていた。

ソファの真中にあたし。左右に可憐と野梨子。ソファの後ろにあたしたちを守るように、魅録と美童が立つ。

向かいのいすに清四郎が座っている。間にあるローテーブルにあたしは離婚届を乗せた。

「清四郎の話って何?」

 清四郎は黙って離婚届を見ていた。それから、ゆっくりとあたしに視線を移す。

「本気ですか」

「ああ」

「理由を聞いてもいいですか」

 真っ直ぐにあたしを見る黒い瞳。あたしは、いつもこの瞳が少し怖かった。あたしのことは何でもお見通しなのに、自分の感情は決して見せない。そんな気がして。

「あたしは、剣菱のおまけ扱いは真っ平だ」

「おまけ扱いしたつもりはありませんが。付き合い始めてからずっと、幸せだって自分で言ってませんでしたか」

「お前にだまされてた間はな」

「・・・じゃあ、ずっとだまされてればよかったじゃないですか。どうせ馬鹿なんですから」

「・・・お前、子供にも、そう言えるのか。お母さんはお父さんにだまされてて幸せなんだよって」

 ローテーブルに、超音波写真を叩きつける。妊娠を調べてもらった産婦人科でくれた、まだ小さな卵みたいな胎児の写真。

「えっ・・・」

 感情を見せないはずの清四郎の瞳が揺れた気がした。

「安心しろよ。もうこの世にはいない。お前にビンタされた夜に、流産したんだ」

「悠理・・・」

「別に、お前のビンタが理由じゃないみたいだけどな。でも、お前はどうせあたしみたいなバカな女との子供なんていらないだろ。野梨子みたいな優秀な女ならとにかく。それとも、可憐がよかった?」

 

『お前に似た男の子がいいな。それでさあ、お前みたいじゃなく、素直で明るい子に育てるんだ』

『僕のどこが素直で明るくないっていうんですか。僕は悠理に似た女の子がいいです。レディに育てますから。ああでも、悠理に似ていたら男の子でもいいですね。きっと、バレンタインデーに貰うチョコの数は、聖プレジデントの記録になりますよ』

 

 清四郎は覚えているだろうか。あたしが幸せだと思っていたころ、そんな会話をしたこと。いつか、あたしは清四郎の子供を生むんだって、何の疑問も持たず思ってたころ。

 

「すまなかった・・・。何も気づいてなくて」

「口先だけの謝罪なんかいらない。あたしが、流産して入院しているとき、お前が可憐をレイプしようとしたことも知ってるんだからな」

 今度こそ、本当に。清四郎のポーカーフェイスは崩れていた。

 強張った表情で可憐を見る。それから、その後ろの魅録を。

「僕に、どうしろと・・・」

「だから、離婚してほしいんだよ。もうお前と夫婦でいる気はないんだ」

「離婚は、しない」

 清四郎は真っ白な顔色で、でも、はっきりとそう言った。

「有閑倶楽部と引き換えにしてもか」

 魅録が低い声で聞いた。

「お前は、可憐を傷つけ、そのことで俺も傷つけた。お前のやったことは、最低だ。でも、それもこれも、お前と悠理の愛のない結婚が原因なら、離婚して悠理を自由にしてやれ。それなら、俺も可憐も、お前を許すように努力する。剣菱欲しさに、悠理を結婚に縛り付けておくっていうなら、俺たちの友情はここまでだ」

「僕が、可憐にしたことは、謝ってすむことじゃないのはわかっています。本当に申し訳ないことをしたと思っています。・・・でも、許してもらえなくても、かまわない。悠理と離婚はしない」

「そうまでして剣菱が欲しいのかよ」

 そう聞くあたしの声と同じくらいに冷たい声で清四郎が返事をする。

「ええ、欲しいです」

 

「離婚しないなら条件がある」

「何ですか」

「あたしのプライベートに干渉するな。あたしに、指一本でも触れてみろ、母ちゃんが、お前を東京湾に沈めるぞ。その代わり、あたしもお前がどこでどんな女と遊ぼうが気にしない。ただし、可憐と野梨子は駄目だ。可憐は魅録と結婚する。野梨子は美童とこのままスウェーデンに行く。スウェーデン駐在の日本大使夫人が、白鹿流のお弟子さんで、前からぜひ来て欲しいと頼まれてるって。なあ、野梨子」

「ええ。ですから、清四郎、もう夜中に愚痴をこぼしに来ることはできませんわよ」

「それから、あたしたち五人とお前は同じ学校の卒業生だけど、もうダチじゃない」

「清四郎、悪いけど、君はもう有閑倶楽部の一員じゃない」

「剣菱と引き換えに、友達を失うのよ。それでもいいの、清四郎。悠理を解放してやってくれないの」

 美童と可憐の言葉にも、清四郎は首を横に振った。

「離婚は、できません」

「じゃあ、条件は飲むんだな」

「ええ」

「わかった。じゃあ、離婚はしない。本当にいいんだな」

「しつこいですよ」

 清四郎。お前が選んだ剣菱が、お前を選んでくれるとは限らないんだ。あたしの復讐はこれからなんだから。

 

 次の日、可憐と魅録は日本に帰った。美童と野梨子はスウェーデンに向かった。清四郎の乗ってきた剣菱のプライベートジェットには行きと同じ清四郎だけ。

 あたしは、ケンブリッジ大学へ、帝王学の聴講生として短期留学した。

 

 ケンブリッジで初めての一人きりの夜、あたしは昨夜のことを考えていた。

 

菊正宗病院で、可憐と野梨子に会ってから。

あたしたちは清四郎への復讐を計画し始めた。

あたしの望みは離婚だった。

母ちゃんは怒り狂っていたけれど、豊作兄ちゃんが「この二人は仲間を巻き込んで夫婦喧嘩をしているだけだ。夫婦のことは夫婦の問題だ」と冷静に母ちゃんをなだめてくれた。母ちゃんが兄ちゃんの言うこときくなんて信じられなかったけど、最終的には清四郎を東京湾に沈めるという母ちゃんの意見は却下された。あたしだって、母ちゃんを犯罪者にはしたくなかったので、ほっとした。「離婚したら二度と剣菱に関わらせない」この点で、母ちゃん、兄ちゃん、あたしの意見は一致した。父ちゃんには最初から話すつもりはなかった。どちらにしろ、父ちゃんは母ちゃんの意見に逆らえないんだし。

 問題は、離婚に同意してもらえなかった場合だ。可憐のことを表沙汰にはしたくない。調停に持ち込んで、マスコミに嗅ぎ付けられたりしたら困る。清四郎だって、そういう事情は察するだろう。簡単に離婚に応じてくれるとは思えなかった。

 作戦は野梨子が考えた。有閑倶楽部全員の前で離婚届を突きつける。それでも離婚に応じなかった時の最後の切り札を考えたのも野梨子だ。兄ちゃんと母ちゃんはこの切り札にはすんなり賛成はしてくれなかったが、最終的にあたしがそれでいいと決めた。

 やっぱり、清四郎は離婚に応じなかった。

 切り札はこれから出さなきゃならない。

 そのための留学だ。

 強くなるって決めたんだ。

 そう言い聞かせて、涙をこらえた。

 

三ヶ月後、あたしはあたしの復讐の最後の仕上げに日本へ帰った。あさっては株主総会。そこで剣菱グループの新しい体制を発表する手筈になっている。

剣菱の家で、久しぶりに清四郎に会った。豊作兄ちゃんと三人で、ダイニングテーブルを囲む。兄ちゃんが、新しい剣菱の組織図を清四郎に見せた。

父ちゃんが会長、兄ちゃんが副会長。その下で剣菱を二つにわけて、日本の剣菱本社の社長があたし。兄ちゃんは剣菱インターナショナルの社長も兼任。海外事業は兄ちゃんの管轄になる。清四郎は日本本社社長室室長。つまり、あたしの部下だ。

これが、あたしの最後の復讐。最後の切り札。

いつも馬鹿にしてたあたしの部下になる気分はどう?

嫌なら離婚すればいいんだ。

文句を言われたら言い返してやろうと心の中であれこれ考えていたのに。

黙ってみていた清四郎は、なぜか少し笑って兄ちゃんを見た。

「僕が方針を考えて悠理が動く。豊作さんには、人脈を生かした根回しをお願いできると考えていいですか」

「まあ、そうだね」

「適材適所ってことですね」

清四郎は淡々とした様子でうなずくと、

「わかりました」

それだけ言って立ち上がった。そのまま、自分の部屋へ向かおうとするらしい清四郎を、あたしは追いかけた。

「待てよ」

怪訝な顔で振り返る。その瞳はいつものように落ち着いていて、何の感情も見せていない。

「お前、あのポジションでいいのか。剣菱が欲しかったんじゃないのか」

少し首をかしげてあたしを見下ろす。

「僕は、剣菱を欲しいと言いましたが、剣菱のトップになりたいと言った覚えはありませんよ」

「じゃあ、なんで・・・」

あたしと結婚して、今も離婚しないで一緒にいるんだ、仮面夫婦のまま、そう言おうとして、言えなかった。

清四郎の瞳の奥に辛そうな色が見えた気がしたから。

「僕が本当に欲しいものが何か、悠理はまるでわかっていません。・・・でもそれは、すべて僕の責任です。僕にとってはこの状況そのものが、僕にできる唯一の贖罪ですから」

 低い、震える声。

 清四郎のこんな声をいつか聞いたことがある気がする。

「そんな顔は、反則です」

清四郎は、絞り出すようにそれだけ言うと、あたしに背を向けた。

 

ショクザイってどんな意味だろう・・・。

食材じゃないことだけは、確かだよね・・・。

 

 

 


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