BY 琥珀様
2.贖罪 いつか、僕の罪が許されて、もう一度悠理をこの腕に抱きしめる日は来るのだろうか。そんなことを望むことすら、許されないのだろうか。 終わりのない迷宮に迷い込んだような日々に、すべてを壊したくなる衝動に駆られる。でも、そんなことは出来ない。ほんの幽かな光かもしれないけど、その光が見えている限り、希望を捨てることが出来ないから。 「これ、ここが何か変。あさっての会議までに調べてくれない?」 「わかりました」 剣菱本社の社長になっても、相変わらずの言葉遣いの悠理。でも、万作さん譲りの野生の勘は確かだ。提携を予定している新興IT企業の財務報告書に大きく付けられた蛍光ペンのマーキング。悠理が変というからには何かあるのかもしれない。ここ2,3年で大きく業績を伸ばしているはずだけれど、粉飾か? 「三代目、今夜の予定って何だっけ」 「花垣物産の東証一部上場記念パーティーです」 「あーあれかあ・・・」 つまんなさそーと言いながら、机に積まれた決済待ちの書類の山から一部取る。 悠理が剣菱本社社長になって半年。社内、社外どちらからも色々と批判はあったが、何とか平穏無事に過ごしている。今日のように特に大きな予定のない日は、社長室には、悠理と室長(という名の何でも屋と社内では言われているらしい)の僕と、悠理の秘書の五代君(剣菱家の執事五代さんの孫で、悠理は三代目と呼んでいる。ちなみに二代目は、やはり剣菱の執事を勤めている)しかいない。五代君は祖父譲りの剣菱家に忠義一徹な性格に加え、几帳面でよく気の付くところが悠理の秘書にぴったりと、豊作さんが薦めた。 他に急ぎの仕事はなかったので、先程悠理に言われたIT企業の財務報告書を調べることにする。細かい数字を確認して、矛盾がないか調べていく。論理パズルを解くような感覚で、こういう作業は嫌いじゃない。 と、悠理の携帯がなった。プライベート用の方だ。 「もしもし。・・・可憐?久しぶり。・・・うん、うん。・・・あ、じゃあさ、今夜パーティー行かない?どっかの会社の何か記念パーティー。金持ちいっぱい来るよ。・・・うん、いいよ、車回すから一緒に行こう。じゃあな」 どっかの会社の何か記念って・・・。さっき確認したばかりだろうに。心の中で突っ込んでいると、悠理が僕を見ていた。 「何ですか」 「今、あたしのこと、バカにしてなかった?心の中で」 「してません」 やれやれ。こんなところで野性の勘は使わなくていいのに。 こんな瞬間、僕は勘違いしそうになる。 高校生の頃のように、お互いの気持ちは通じ合ってなくても。一番近くにいたあの頃に戻れたかと。 いつから悠理を好きだったのか、自覚したのは大学生になってから。でも、自覚してみれば、もうずっと悠理しか見えていなかったのだと気がついた。いつでも悠理の隣にいたいと願っていた。それが恋だと知るずっと前から。 心のままに泣いたり笑ったりする無邪気さ、自分の人生を自分で選び取ろうとする前向きな毅さ、どんなときも友人を守ろうとする優しさ。自分にない悠理の全てが眩しかった。 トラブルメーカーの悠理が誘拐や事件に巻き込まれるたびに、引きちぎられそうに痛む心は、彼女を失ったら僕の人生に何の意味もないのだと既に知っていたのだ。僕の理性が見ないふりをしていた頃から。 今、彼女は僕の妻で、仕事では上司だ。公私共に一番近い存在だけれど、僕は悠理に指一本触れることはできない。 もう一度悠理をこの腕に抱ければ、東京湾に沈められても幸せに死ねるだろう。そう思わない日はないけれど。 この日々は、僕にとっての贖罪だ。 その夜、悠理はパーティーに出席するため、定時で会社を出た。僕は残業して、IT企業について調べて、ようやくいくつかの矛盾点を見つけ出した。 やはり悠理の野生の勘が当たっていた。 提携は考え直したほうがいいな。会議で重役連中を納得させるだけの資料を作り、夜遅くなって、剣菱の家に戻った。 仕事以外では殆ど口も聞かない夫婦だけれど、僕はまだ剣菱邸に住んでいる。菊正宗家の敷居は二度とまたがせないと、姉貴から宣言されているからということではなく、少しでも悠理のそばにいたい、それだけのことだ。 悠理には、剣菱のために夫婦でいると思われているけれど。 すべては、僕が悪かった。 僕が、悠理と可憐を傷つけ、有閑倶楽部の五人を怒らせた。原因は、僕の魅録への嫉妬にすぎなかったのに、そんなことにも気がつかず。 僕は、あの時、どうかしていたのだ。 悠理が僕の想いを信じてくれていない。 こんなに愛しているのに。 その苛立ちのままに悠理を傷つけ、そのことで僕もまた傷つく。 愛と憎悪は少し似ている。あの頃、悠理にはまるで僕が悠理を憎んでいるように見えたかもしれない。 提携を希望していたアメリカの企業とのパーティーの騒ぎで、一番腹立たしかったのは、僕自身が悠理を守れなかったことだった。同じ会場にいたのに、悠理に不快な想いをさせてしまった、その怒りを自分の中でうまく消化できないまま、仕事上の後処理に翻弄された。 悠理とどう仲直りしよう。 付き合っているときも、結婚してからも、ささやかな喧嘩は何度もした。でも、こんなに何日も口を聞かないのは初めてだ。きっかけを探しているときに、魅録のバイクで送られてくる悠理を見てしまった。 『魅録ちゃーん、愛してる』 そんなのいつもの悠理の口癖に過ぎないのに。 頭に血が上るのが自分でもわかった。 悠理が、僕と野梨子のことで不安になるように。僕も、悠理と魅録の仲の良さにはいつも嫉妬していた。 悠理が本当に好きなのは魅録じゃないのか。 魅録への想いが一方通行だとわかっているから、剣菱に入社しようと思ったのではないのか。意に染まぬ相手と結婚しなくてもいいように。そう考えると、悠理が大学時代に急に向上心を持ったことの辻褄があう気がした。どうして剣菱に入るなんて言い出したのか、悠理は僕にはっきりした理由を教えてくれなかった。もし、魅録以外の相手と結婚しなくてもいいように自立するためだったとしたら。 今も悠理の心には、魅録がいるのだろうか。 そう思うと、魅録が幸せになることが許せなかった。 魅録を苦しめるために、可憐と身体の関係を持とうとして、手ひどく拒絶され、レイプしようとした。最後のところで、僕の理性を甦らせたのは、可憐の「こんなことして、悠理が泣くわよ・・・」という涙声の台詞だった。 そんなはずはない。 悠理は僕のことを好きじゃない。 そう思っても、可憐の泣き顔が、脳裏に浮かんだ悠理の泣き顔と重なる。 僕は、何をしようとしていたのだろう。 大事な仲間に。 自分自身の醜さに吐き気がした。 魅録は、可憐を大きな愛情で支え、二人は今は幸せな結婚生活を送っている。 魅録と可憐の結婚式の日。もちろん僕に招待状は来なかったけれど。 「絶対この日は予定を入れるなよ」と三代目に念を押す悠理の様子ですぐわかった。 悠理は嘘なんかつけない。 そんな簡単なことを僕はどうして忘れていたのだろう。 悠理が僕に嘘をつける訳がない。そのことを忘れなければ、悠理が本当は魅録を好きなんじゃないかと嫉妬する必要など、どこにもなかったのに。
魅録と可憐の結婚式の夜、いつになく酔っ払った悠理を、美童が送り届けてくれた。 「可憐と魅録が幸せになってよかった・・・」 何度も繰り返しながら、美童の肩にすがりついて泣く悠理。 悠理の肩を支えているのが僕じゃないことに、自業自得ながら苦い想いをかみしめる。 僕の犯した罪で、可憐と魅録の仲が壊れていたら、僕は悠理に殺されていたかもしれない。友達想いの悠理を、僕はいくつもの意味で裏切ってしまったのだ。 美童が五代ジュニアの手を借りて悠理を部屋へ運ぶまで、僕は自分の部屋のドアにもたれかかって見ていた。 仕事が一段落したので、何か水分を摂ってから寝ようと、キッチンへ行くところだったのだ。悠理が部屋に連れて行かれたのを確認して、僕は階下へおりる。スポーツドリンクを飲んでいると、 「僕にも頂戴」 と、後ろから声をかけられた。 「まいっちゃうよ。彼女の家に泊まるからって言ってるのに、ずいぶん飲まされちゃって」 「野梨子は、元気ですか」 「・・・元気だよ。今、フランスでお茶を教えてる。今回はしばらく日本にいるみたいだから、気になるなら直接会いに行けば?」 「フランス?スウェーデンではなく?」 「・・・何度か、プロポーズしたんだけどねえ」 僕の渡したスポーツドリンクのふたを開けながらつぶやく。断られちゃってさあ。 「清四郎、清四郎が本当は野梨子を好きなら、悠理とは離婚して、野梨子のところに行きなよ。無理してたって、誰も幸せにはなれないよ」 「・・・そんな、悠理みたいなこと言わないでください」 「ふうん。・・・そうだよねえ。僕、結婚式の後の君たちのことは、日本にいなかったら知らないけど、あの時の二人は、今日の可憐と魅録に負けないほど幸せそうだったもんねえ。連絡もらってシャモニーに行った時も、なんだか信じられなくて。清四郎が、悠理を騙してたなんて。・・・じゃあ、どうして、本当に悠理を愛してるって言ってあげないの?悠理だって、言ってほしいんじゃないかなあ」 「いまさら、どんな言葉を悠理に告げられるっていうんですか。彼女をあんなに傷つけたのは、僕自身なのに」 「その気持ちごと、伝えるしかないんじゃないの?今は信じてもらえなくても、いつか信じてもらえる日まで、言い続けるんだよ」 こくこくと、スポーツドリンクを飲み干すと 「ごちそうさま」 そう言って、美童は帰っていった。
この気持ちを表す言葉を僕が知っていたら、とっくに伝えている。 残業を終えて剣菱邸に戻ると、ちょうど悠理もパーティーから戻ったところだった。 「お帰りなさい」 声をかけると、びくっとして振り返る。可憐と一緒だったにしては、様子が変だ。何かあったのだろうか。 「せ、清四郎も、今、帰り?」 「ええ。悠理の言ったとおり、あの会社の財務報告書に虚偽があるようです。提携計画は白紙に戻しましょう」 「そ、そう。悪かったな。こんな遅くまで残業させて」 「・・・仕事ですから」 何か、心ここにあらずといった様子で、悠理は広い玄関ホールを抜け、自分の部屋へとむかう。僕はその後ろを歩きながら、細い悠理の肩を眺めていた。なぜだろう。きょうは、悠理の肩がいつもより小さく見える気がする。 2階の、悠理の部屋の前で、思い切って声をかけた。 「悠理、何かあったんですか」 振り返る悠理の目に涙が溜まっていて、僕は驚いた。 「どうしたんですか」 「清四郎、あの、あのさ、・・・野梨子が帰ってくるんだ」 それで、何故、悠理が泣いているんだろう。 「・・・入って」 悠理は部屋のドアを開けて、僕を招きいれた。
夫婦だというのに、こんな風に部屋で二人きりになるのは、1年近くなかった。悠理の部屋も久しぶりだ。 ソファに向かい合って座る。 「来週、野梨子が帰ってくる。一時帰国とかじゃなくて、当分日本で家元修行をするって、今日、可憐から聞いたんだ」 「そうですか。・・・それで、何故、悠理が泣いているんです」 「可憐は、自分たちが幸せだから、清四郎を許してやれっていうんだ。でも、あたしは、・・・今のあたしが幸せかどうかわかんないから、清四郎を許すことができない」 涙に濡れた目で、まっすぐ僕を見る。いつだって、悠理はまっすぐ、僕を見るんだ。僕の心の奥まで見通すかのように。 「あたし、野梨子は美童と幸せになってるって思ってた。でも、美童のプロポーズを何度も断って、とうとう日本に帰ってくるって聞いて、やっぱり、野梨子、清四郎のこと、忘れられないんじゃないかって、思って・・・」 泣きじゃくりながら、悠理は話し続ける。 「あの、時、あたしが、流産で入院してた時、和子姉ちゃんが、清四郎はずっとあたしのことを好きだった、野梨子のことが好きだっていうのは、あたしの思い違いだって言って」 シャモニーの夜以来、悠理の口から流産のことを聞くのは初めてだ。どれだけ辛い想いをしたんだろう。罪の意識に心が痛む。悠理は、僕の目を見ながら、話し続けた。 「誤解は解いたほうがいいって、和子姉ちゃんは、野梨子を呼んでくれた。そのとき、ボロボロになった可憐も連れてきて、それで・・・野梨子は清四郎にすげー怒ってた。あんな怒ってる野梨子見たのははじめてかもってくらい怒ってた。その時、『あんな人を、一度でも好きだと思った私が馬鹿でしたわ』って確かに言ったんだ。・・・あの時は、あたしも、清四郎に腹を立ててたし、復讐してやろうと思ってたから、あんまり気にしてなかったけど。今になって思い出して・・・。清四郎も、野梨子が好きなら、・・・二人には幸せになってほしい。あたしの目の前で幸せな様子を見せ付けられるのは辛いから、できれば、あたしの見えないところで・・・剣菱のアメリカでも、中国でも好きなところに行ってくれていい。どんなポジションでも用意する。だから、せめて、あたしの目に見えないところで、幸せになってくれれば・・・。仕事で、清四郎がいなくなるのはキツイけど、でも・・・清四郎を許すことはできなくても、今のまんま、あたしも清四郎も、中途半端な状態じゃなく、ちゃんと幸せになったほうがいいって・・・」 僕の幸せが、どこにあるのか、悠理は相変わらずわかってない。 どうして。 手を伸ばせば、触れられるところに、僕の幸せは座っているというのに。 「悠理、泣くな・・・」 昔のように。 そのふわふわした髪を撫ぜる。 指一本触れるなと言われたけれど。 こんな風に、悠理に泣かれて、僕はただ見てるだけなんて、辛すぎる。 「僕は、野梨子を愛してません。僕が愛してるのは、悠理だけです」 不意に、僕の手を振り払い、悠理が立ち上がった。 「あたしは、もう騙されない。あの子に誓ったんだ。強くなるって」 おなかに手をあてて、叫ぶ。 「あの時、あたしは、赤ちゃんができたって清四郎に言えなかった。清四郎が喜んでくれるかどうか自信がなかった。そんな風にあたしが弱かったから、あの子はあたしのところから天に帰っちゃったんだ。清四郎が喜んでくれなくても、あたし一人でも育てるって覚悟がなかったから。だから、あたしは強くなるって決めた。一人でも生きていけるように強くなるって。・・・出てって」 「悠理」 「出てって!!」 ドア越しに悠理が泣き叫んでいるのが聞こえる。 大声で。 やがて声は少しずつ小さくなり、すすり泣きに変わる。 完全に寝息に変わって、悠理が泣きつかれて眠ったと思われたころ、僕はそっとドアを開けて、もう一度悠理の部屋に入った。 部屋の奥、天蓋付きのベッドにうつ伏せて、悠理は眠っていた。黒いパンツスーツのまま。いつからだろう、悠理は黒い服しか着ないようになった。確認したことはないけれど、僕にはその理由は何となく想像できた。 そっと近づくと、サイドテーブルに写真立てがあるのが目に入った。 結婚したばかりの頃、二人で選んで飾った新婚旅行の写真や、有閑倶楽部のみんなが開いてくれたパーティーでの写真が飾ってある。・・・今も?なぜ、今も飾ってあるのだろう。そしてもう一枚。シャモニーで、悠理が僕にたたきつけた胎児の超音波写真。やはり、そうだ。彼女の黒い服は喪服だ。 『男の子でも女の子でも、悠理に似ている子供が欲しいですね』 いつか僕が言った言葉は心からのものだったのに。 「悠理」 低い声で名前を呼ぶ。 悠理はピクリとも動かない。 「悠理、一人で生きていくなんて言うな。悠理の痛みを僕にも背負わせてほしい。僕は悠理と一緒に生きていきたいんだ」 そっと、その髪に口付ける。 悠理を起こさないよう、僕は静かに部屋を出た。 美童の言うとおり、伝え続けていれば、いつかわかってもらえるのだろうか。 僕らは楽しい時を一緒に過ごすことはできても、辛い時に支えあうことが出来なかった。悠理は一人で強くなろうとしている。学生の頃から悠理には僕がいなくては駄目だと思っていた。本当は僕に悠理が必要だったのだ。昔も今も。悠理にも僕を必要として欲しい。強くそう思った。 次の日、悠理は泣きはらした赤い目をしていたが、いつも通り起きてきて、仕事に向かった。今日は午後から悠理は札幌出張だ。レストラン事業部が北海道に初出店する郊外のオーベルジュのオープンに立会い、夜は関連会社のパーティー、次の日は剣菱商事札幌支社の視察、午後には東京に戻ってきて本社で会議という強行スケジュール。大丈夫だろうかと思ったが、悠理は僕には何も言わなかった。 正直、今日は、僕の方がピンチかも。あの後、ほとんど眠れなかった。眠気を払うため、朝から濃いコーヒーを何杯も飲んでいるが、一向にシャキッとしない。悠理と五代君が出張に向かった後、一人きりの社長室でデスクに肘をついて少しウトウトしていた時、電話が鳴った。 「社長室です」 受付の女性が、松竹梅様という男性から室長にお電話ですと告げる。 魅録? 「お電話変わりました。菊正宗です」 『俺だよ、清四郎』 懐かしい声が受話器から響く。 「久しぶりですね」 『ああ。久しぶりに、飯でもくわねえ?』 「いいですけど、僕ですか。今日は悠理は札幌出張でいないんですが」 『お前さんに用がある。今日は、何時に会社を出れそうなんだ』 「社長も出張中ですし、六時には帰るつもりでしたが」 『じゃ、うち来いよ。お前の分も飯用意しといてもらうから』 「わかりました」 『じゃあ、後でな』 まったく昔通りの様子に、嬉しいと感じている自分がいる。 あの時、シャモニーの夜。 仲間の友情すべてと引き換えにしても、悠理のそばにいることを選んだのは、まぎれもなく僕の真実だけれど。
名輪に魅録の家まで送ってもらった。久しぶりの親友の家。少しどころかとんでもなく敷居が高い。途中で買った旨い日本酒を土産に差し出すと、魅録は嬉しそうに笑った。少し肩の力が抜けた気がした。警視庁に勤める魅録は、髪の色こそピンクではないが、他はあまり変わっていないように見えた。可憐は相変わらず美しかったが、すっかり落ち着いた雰囲気になっている。 『二人は幸せだから、清四郎のことも許してやれって』 悠理の言葉を思い出す。 本当に、二人は幸せそうだ。良かった。 だが、僕の中でけじめはまだついていない。 気合をいれ、呼吸を整えると、魅録と可憐の前に僕は土下座をした。 「二人にきちんと謝っていませんでした。本当に申し訳なかった」 頭を下げた僕の肩を魅録が軽く叩いた。 「謝って貰うために呼んだんじゃねえ。顔をあげろよ、清四郎」 「そうよ、こっちに座って頂戴」 うながされるまま、ダイニングテーブルの方に移動する。 テーブルの上にはもう三人分の食事が並んでいた。 許してもらえるとは思わないけど、少し心が軽くなった。 「急に呼び出して悪かったな」 「いえ・・・嬉しかったですよ」 可憐の手作りのつまみを肴に、日本酒を飲む。 「悠理が社長なんて、ホント驚いたわ」 「でも何とかやってるようじゃねえか」 「ええ。さすがですよ」 「清四郎のフォローのおかげだって、悠理言ってたわよ」 「悠理がそんなことを?」 「ええ」 昔のような、当たり前の会話。 それが、こんなに心を慰めるものだとは知らなかった。 「実はさ、今日わざわざ来てもらったのは、その悠理のことなんだが」 魅録が口を開く。 「昨日、パーティーに同行させてもらった時、野梨子が帰ってくるって話をしたの」 可憐が言葉を続けた。 「悠理から聞いてる?」 「聞きました」 「何か、様子が変じゃなかった?」 可憐が心配そうに僕のほうに身を乗り出した。 「・・・変でしたよ。僕に、野梨子と幸せになれって、泣きながら言いました」 魅録と可憐は顔を見合わせた。 「清四郎は、本当に野梨子を愛してるんじゃないの?」 「どうして、みんなそう思うんですか」 「どうしてって・・・幼馴染でずっと一緒にいて、付き合ってたこともあるし。悠理との結婚がうまくいかなくなってから、随分野梨子のうちに入り浸っていたんでしょ?」 「付き合ってたなんて言えるかどうか。・・・野梨子に好きだと言われたことは確かですが・・・。白鹿の親戚の方が養子にとうるさくて、うちの両親もさすがに嫌がりましたからね。野梨子も、菊正宗の家とぎくしゃくするくらいなら、何もなかったことにしようと言ってくれましたし。・・・まあ、悠理の愚痴をこぼす相手ではなかったと、今ならわかるんですが。あの頃は、僕も野梨子に甘えていたんですね・・・。僕は野梨子に甘えていたのに、悠理が魅録に頼るのは許せなくて。悠理が怒るのは当然です」 ここまで正直に喋ると、さすがに気恥ずかしく、手元の酒を一気に飲み干す。 寝不足のせいか、酔いが急に回った気がした。 「・・・私たち、悠理は本当に清四郎のことを嫌いになって、それで離婚したがってるって思ってたの。でも、昨日のあの様子を見てると、なんだか、悠理はまだ清四郎のこと好きなんじゃないかと思えてきて。それで、今日は悠理が札幌に出張だって聞いたから、清四郎の気持ちを聞いて見ようかって」 ね、と同意を求めるように可憐が魅録を見る。魅録は煙草を咥えながら、ああとうなずいた。 可憐が、僕のお猪口に酒を注いでくれる。 「悠理が社長になった時も、清四郎が離婚に応じなかったって、悠理から聞いたけど」 「ええ」 「清四郎が悠理と離婚しない理由って・・・」 「清四郎、お前、悠理を剣菱のおまけと思って結婚したわけじゃないんだな?」 「ずっと、ずっと、好きでしたよ。悠理が魅録を好きだと勘違いして、嫉妬で気が狂いそうになるくらいに」 「悠理は、まだ誤解したままなのね」 「僕が誤解させるような真似をしてしまったせいです」 苦い思いとともに酒を飲み干す。 寝不足のせいだけだろうか、酒の回りが本当に早い気がする。 「可憐、魅録、教えてもらえませんか」 何だろう。意識がかすむ。自分の声が、遠くに聞こえる。 「僕は、まだ悠理を愛してる。悠理もまだ僕のことを好きだと思ってくれているなら、 ・・・僕らは、やり直すことは・・・出来ないんでしょうか。僕は・・・」 僕は二度と悠理を腕に抱くことは出来ないのでしょうか。とは、言えなかった。 目が覚めたとき、そこは剣菱邸の見慣れた天井ではなかった。 「清四郎?目が覚めた?」 ベッドの脇に腰掛けていたらしい悠理が、僕の顔を覗き込む。 「ここは?」 「菊正宗病院」 悠理はそれだけ言うと、パタパタとスリッパの音を響かせて、部屋を出て行った。 どういうことだろう。昨夜、魅録のうちで飲んでいたはずなのに。 悠理の代わりに部屋に入ってきたのは、姉貴だった。 「気分はどう。昨夜、魅録くんの家で倒れたって連絡があったのよ」 「倒れた?」 点滴を打たれていたらしい、姉貴がテキパキと針をはずし、処理をしているのをぼんやり眺めた。 「軽い胃潰瘍。栄養失調。あとは、寝不足にアルコールがはいったせいで、ごくごく軽い急性アルコール中毒ってとこ。胃潰瘍の薬は出しとくわ。・・・消化のいい食事をとって、睡眠を十分にとる。あとアルコールとコーヒーを控える。剣菱でそれが無理なら、しばらくうちに帰ってくる?」 「二度と菊正宗家の敷居はまたがせないんじゃなかったでしたっけ」 「倒れるくらいあんたが苦労してると思うと、ちょっと可哀想になって」 「悠理は?」 「札幌に戻るって言ってたわよ」 「魅録の家で倒れたんですから、ここに運んでくれたのも魅録ですよね。悠理はいつから僕を見ててくれたんですか」 「正確な時間までは知らないわよ。可憐ちゃんが連絡したら、ヘリですぐ飛んできたって言ってたけど」 僕のことを心配して、札幌から飛んできてくれたのか。仕事があるから、また戻らなきゃいけないことはわかっていて。 おぼろげな意識の中聞こえた、かすかなささやき。 『あいしてる、せいしろー』 あれは夢だったのだろうか。 「今、何時ですか」 「午前八時三十二分」 姉貴は医者らしく腕時計を見ながら正確な時刻を告げる。 「お申し出はありがたいんですが、剣菱に戻ることにします。仕事もありますし」 「あ、そ」 姉貴はあっさり言うと、もう帰っていいわよと手を振った。 受付で清算を済ませ、病院を出ようとしたところで、可憐に会った。 「悠理から連絡をもらったのよ。もういいの?」 「ええ。姉貴にもう帰っていいと、病室を追い出されましたよ。ご心配をかけて申し訳ありませんでした」 「こちらこそ、悪かったわ。あんたがそんなに疲れてるなんて、気づかなくて」 「大丈夫ですよ。よく眠れましたし」 「そう。・・・少し、時間ある?」 まだ喫茶室は空いていない時間だったので、待合室の椅子に少し離れて僕と可憐は座った。 「やっぱり、悠理もあんたのこと、まだ好きなんだって実感しちゃったわ。清四郎が倒れたって電話したら、ヘリで飛んできたんだもん。・・・魅録とも話したんだけど、今度こそ悠理を幸せにするって、私たちに誓える?有閑倶楽部の仲間に」 可憐は何だか嬉しそうな表情で言った。 「・・・誓えますよ」 「じゃあ、任せて。もう一度、あんたの腕に悠理を抱かせてあげる。そうしたいんでしょ」 僕は、何か余計なことを言ってしまったのか?倒れた時に。顔が赤くなっているのがわかって、僕は両手で顔を覆った。 「また連絡するわね、じゃ」 可憐はひらひら手をふって、帰って行った。
タクシーで一旦剣菱邸に戻り、シャワーを浴び、着替えてから出社した。 主である社長がいないので、社長室も静かだ。 三時からの会議の資料をチェックする。重役連中を納得させられる内容になっていることを確認すると、他の案件に取り掛かった。一人きりのオフィスで仕事を片付けていると、あっという間に午後になって、悠理と五代君が帰ってきた。 「清四郎?休んでなくて大丈夫なのか」 僕がいると思っていなかったらしい悠理が大声を出した。 「ご心配をおかけしましたが、大丈夫です。診察してくれたお医者様からも帰っていいと言われましたし」 「お医者様って和子姉ちゃんだろ・・・大丈夫なのかなあ」 ぶつぶつ言いながら、悠理が自分のデスクに座ると、五代君が仕事用の大きな鞄から書類の入ったフォルダをいくつも取り出し、悠理のデスクに置く。うんざりしたような顔でそれを見ていた悠理は、ふと何か思い出したように僕を見た。 「あー、お前、飯食った?」 「・・・食べてません」 「やっぱり。お前さあ、仕事に夢中になると飯も食わないから、だから倒れるんだよ。なあ三代目」 「社長ほど召し上がるのはいかがかと思いますが」 「三代目の分際であたしにたてつこうっての?」 「論点がずれてますよ。五代君は忠実な秘書です。いじめてどうするんですか」 「だから、お前に飯も食わせてないのかって、和子姉ちゃんに思われちゃうだろ」 「なんの脈絡もありませんね。五代君、社長の昼食は?」 「お弁当を3つほど・・・」 「三代目、余計な事言うなっ」 「わかりました。じゃあ、社長はこれ以上食べる必要はないですね。僕は食事休憩に行ってきます。社長はその書類を処理してください。三時からの会議までには終わりますよね。会議の後は、札幌支社の視察について聞かせていただきますから」 「鬼ぃ」 そう言いながらも、悠理は書類に手を伸ばした。それを確認して僕は社長室を出ようとした。 「お前、ちゃんと栄養のあるもの食べろよ。お前が倒れたら、あたしが困るんだからな」 悠理が僕の後ろからそう言った。 「社長命令と受け取っておきます」 僕は振り返らずに社長室を出た。嬉しさのあまり顔が赤くなっているかもしれないのは 見せたくなかった。 地下のカフェテリア式の社員食堂で昼食にしよう。そう思って、エレベーターに乗った。仕事以外でほとんど僕に話しかけなかった悠理が、僕の健康を心配して、食事について気にかけてくれた。そんなささいなことでこんなに嬉しいなんて、まるで高校生のころみたいだ。 出口のない迷路から抜け出せそうな予感がした。 いつだって、悠理が僕の出口だった。 そばに悠理がいてくれればいい。それが僕の幸せだ。そのことを僕は二度と忘れない。
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背景:Baby Angel様