〜菊正宗家編〜 菊正宗家の玄関先にて。 「ただいま」 「こんちゃーっす!」 ふたり揃って来訪した弟とその元嫁に、菊正宗和子の顔はひきつった。 「・・・おかえり」 離婚の報告を受けてから、菊正宗家の人々が彼らと顔を合わすのは初めてだ。 悠理の元気な声に、腰の重い当家の主人も玄関に顔を出した。 「悠理くんか?どうしたんだ、揃って」 「いえ、野梨子のところで、久しぶりに皆で集まってたんですよ。ここまで来ていて顔を出さないのも不義理かと思いまして」 「えへへ。おっちゃん、おひさー!」 「・・・”おっちゃん”・・・」 もう嫁ではなくなったのだから、”お義父さん”ではない。悠理の言葉に、この元嫁をいたく可愛がっていた修平は肩を落とした。 不器用な悠理が言葉を言い換えられるはずはなく、”お義父さん”などと呼ばれたことは一度もなかったという事実を、修平は意識したことがないだけだったのだが。 「あらあら、久しぶりねー、悠理ちゃん!ちょうど良かったわ。これから夕食なの。食べてらっしゃいな」 夫人はにこにこと出迎える。 「急に来てすみませんね。大丈夫ですか?こいつの消費量は知ってますよね」 「大丈夫よ、今夜はお鍋だから。いくらでも追加できてよ」 「やったー♪」 悠理は舌なめずりしながら、清四郎よりも先に靴を脱いで上がり込む。 じゃあ、と清四郎も悠理の横に靴を並べた。 「悠理、手を洗えよ」とまるで小学生に注意するような弟の言葉に、和子は眉を顰める。 修平も戸惑い顔で、長男夫婦(元)の後ろ姿を見送っていた。 「わーい♪鍋なんて久しぶりだなーっ」 悠理の明るい声で、菊正宗家の食卓は華やいだ。 居るだけでその場を明るく活気あるものにするのは、彼女の意識しない美点だ。 「あら、剣菱のお宅では、もっと豪勢なお鍋ができますでしょ」 気持ち良いほどの悠理の食べっぷりに、夫人はご機嫌で鍋に食材を足す。 「家ではあんまり鍋ってしないんだよな。ここんとこずっと父ちゃんたちはハワイだし、兄ちゃんは飛び回ってるし。な、清四郎」 悠理は箸を休めず、隣の清四郎に顔を向ける。 「そうですな。鍋は大人数の方が。ふたりっきりでしてもね」 清四郎は父親に酒を注ぎながら、相づちを打った。 「・・・いつもあなたたち、ふたりで食事してるの?」 和子が弟とそっくりな形の良い眉をしかめた。 新婚ならともかく、新離婚。いまだ同居しているだけでも、和子には理解不能。 「そうでもないじょ。清四郎、帰るの遅いもん」 悠理は箸を止めて、口を尖らせた。恨みがましい目で清四郎を見上げる。 「あたい、晩御飯はほとんど一人だもん」 「まぁ・・・」 自分も忙しい医者の妻である夫人が、悠理に同情の目を向けた。 清四郎は苦笑しながら、悠理の杯に酒を注いだ。 「でも、僕は遅くなっても食事はほとんど家で摂るんですよ。そのとき必ず悠理も食べるじゃないか。あれはなんだ?夜食?」 「うん」 悠理はクイと杯を空けながら、小さくつぶやく。 「おまえだって、一人じゃ淋しかなーって・・・」 清四郎の目が和らいだ。 悠理の鉢を取り、鍋から具を足してやる。 「ほら、悠理の好きなツミレ。おふくろのが一番おいしいって、以前言ってましたよね」 「うんっ♪」 悠理の顔に笑顔がもどる。 「ま、嬉しいこと」 夫人も微笑む。 しかし、悠理はふと、箸をくわえて食卓を見回した。 「だけどあたい、もうたくさんもらっちゃったよ。みんなの分なくなっちゃう」 野菜や魚肉類は豊富に足してあったが、夫人手作りのツミレはもともと家族三人分しか用意されていないからだ。 「そんなもので良ければ、遠慮せずに食べたまえ、悠理くん。わしらはいつでも食える」 「そうよ、悠理ちゃん。今度いつ食べられるかわからないんだし」 離婚しちゃったんだから、とは和子は言わなかったが。 「ありがと。じゃ、もらうね!」 悠理は箸を握り直し、鉢に突っ込んだ。 一つツミレを自分の口に放り入れ、満足の笑顔。 「うんまい♪」 そして、もう一つを箸に突き刺し、清四郎に差し出した。 「一個やる。おまえ食ってないだろ?」 「いいですよ。最後の一つじゃないか」 「食えって。うまいぞ!」 ほら、と目の前に突き出され、清四郎は苦笑する。 「じゃ、いただきます」 清四郎は悠理の箸をパクリと咥えた。 悠理は、へへへと笑う。 「代わりに、おまえの小鉢の佃煮、ちょっともらっていい?」 箸休めに夫人が出してくれた小鉢を、とうに悠理は空にしている。 「こいつめ、それが目的だったな」 清四郎はそう言いながら、あーんと開けられた悠理の口に、佃煮を運びいれてやった。 ついでに頬についた米粒を指で取り、自分の口に入れる。 「子供ですか、おまえは。おべんとつけて」 お行儀の悪い長男夫婦(元)の姿に、夫人はにこやかに目を細めた。 「そういえば、野梨子が結婚するそうですよ」 食卓は片づけられ、夫人は食後のお茶を楽しんでいる。男達と娘達はまだ杯を酌み交わしていた。 「ほぉ、野梨子ちゃんが」 「まぁ!ひょっとして、お相手は魅録くん?」 和子の言葉に、清四郎と悠理は目を見開いた。 「和子姉ちゃん、知ってたのか?」 「最近二度ほど、お隣の家の前で見かけたの」 「・・・そうですか」 清四郎は少し複雑な表情を見せる。 悠理はそんな清四郎の肩を突ついた。 「おっちゃん、姉ちゃん、聞いてよ。こいつさっきさ、野梨子から魅録とのこと聞かされて、こーんな顔してさ」 悠理は自分の目を吊り上げ、眉を寄せて見せる。 「ヤキモチ妬いてやんの」 ケケケ、と声を上げる悠理に、清四郎は嫌な顔をする。 「おまえだって、ふくれてたくせに」 「あたいは驚いただけだい」 「魅録に惚れてたのかと、こっちが驚きましたよ」 今度は、清四郎が悠理の頬を突つく。ぷうとふくれていた悠理の柔らかい頬に、清四郎の指が埋まった。 「そんなの思うの、おまえだけだい。自分のこと棚上げしてさ」 「だけど、僕は野梨子が魅録を選んだことは、心から祝福しているんですよ。これで野梨子も幸せになるに違いありません」 遠い目をする清四郎に、姉はポツリとつぶやいた。 「”野梨子も”ねー・・・」 「・・・まぁね、野梨子の結婚に、なにも感じないと言ったら嘘になりますよ。我ながら勝手なもので、心のどこかでは彼女にはいつまでも子供の頃と変わらずいて欲しいと思っていたようです。すっかり心境は兄ですよ」 「おお、わかるわかる。青州氏もさぞかし感慨深いことだろう。今度一席もうけて飲まなければなるまいな。我が家の娘は嫁に行く気配はないが」 男同士はなにやら分かり合っている。 嫁に行く気配のない娘は、肩をすくめた。 出戻り娘は首を傾げる。 「うちの親は早く結婚しろと煩かったけどなー」 「でも、お義父さんは僕らの結婚式で泣いてたじゃないですか」 「あれは、喜びの涙だじょ」 「親の気持ちはそんなもんだよ、悠理くん」 「清四郎、頼むから野梨子の結婚式で、泣くなよ〜」 「泣くか、バカ」 清四郎は悠理の額にデコピンしようとする。悠理は素早く避け、清四郎の背後に回った。 そのまま清四郎の背中にもたれて、和子にウインク。 「いっぺん清四郎の泣きっつらも、見てみたいけどな」 和子は苦笑した。 悠理ちゃんが再婚すれば泣くかもね、と思いながら。口に出さなかったのは、そういう事態を予防するために弟が取るであろう手段が予測できたから。 「そういえば、親父。剣菱酒造のバイオ関連の成果なんですけどね」 父親に向かって、難しい話を始めた清四郎の背中で、悠理は心地良さそうに目を閉じた。 気配を感じたのか、清四郎は振りかえる。 「こら、悠理。寝るな」 「眠ってないよ〜」 「悠理ちゃん、清四郎、今夜は泊まって行けるのでしょう?」 夫人が酒の肴を追加しながら微笑する。 「ええ、でも・・・」 「久しぶりなんだから、泊まって行きなさい」 父親に言われ、清四郎は頷いた。 「でも僕の部屋は姉貴に侵略侵攻制圧されてるんですよね」 「もう占領済みよ」 「客間に布団を敷くから、お風呂先に使いなさいな。着替えは出しておくから」 「すみません、そうさせてもらいます」 母親に、清四郎は軽く頭を下げた。 清四郎が腰を上げた拍子に、もたれていた悠理がコロンと転がった。 眠たげな悠理に、清四郎は微笑を向ける。 「悠理、おいで。お風呂いただこう」 「うん」 悠理は頭上の清四郎に手を伸ばす。その手を引いて立たせてやりながら、清四郎は居間を出ていった。 しっかり悠理の手を繋いで。 弟とその元嫁が風呂場に去り襖が閉まった途端、和子は畳の上をズイッと両親に向かって滑って近寄った。 「ちょっと、ちょっと、ちょっと、なんなのアレ!どーよ、パパママ!」 「どーよ、って何がだ?」 「清四郎と悠理ちゃんって、正式に離婚したはずでしょ?!なのになんなの、イチャイチャイチャ・・・」 「イチャイチャ・・・しておったか?」 「まぁ、あのふたりは昔からじゃれてんだか喧嘩してんだか、だったけれど。あんまりあいかわらずだから、友人としての関係に戻ったのかと思ったんだけど・・・一緒にお風呂に入るのはあんまりじゃない〜〜?!」 ケジメは?!これを看過して良いものか?! と、握りこぶしの和子に、修平は困った顔。 「夫婦のことは、本人達しかわからないものだしなぁ」 独身の和子と違い、菊正宗夫妻はにこやかに顔を見合わせた。 「初孫を抱ける日も、そう遠くなさそうですわね、あなた」 もちろん、客間にはダブルの和式布団を用意している菊正宗夫人だった。 その夜。 キャッキャと明るい悠理の声と、マルチな弟がこれだけはどうしようもないヘタクソな鼻歌が響く風呂場には、和子は決して近寄らなかった。 ダブルの布団の敷かれた客間にも。 まだ、最初の一回目。 この段階では、周囲も多少の困惑を隠せないでいた。 腐れ縁夫婦の迷走に。 そして翌朝、菊正宗家の庭では、久々に長男の張り詰めた凄烈な気合が飛んだ。 かつては一人でしていた稽古だったが、今はパートナーがいる。 ともかくも、いまだ人生のパートナーであることは確かなのだ。 隣家の野梨子が、前日聞かされた、悠理の成長した”脱いだらスゴイ”姿を目撃したかどうかは、知らない――――。 ・・・なんじゃコリャ。ごめんなさい、おとといから38度近い熱に浮かされてるんです、私・・・。 小説置場TOP |