ひゅるるるる〜どーーん。
江戸の夏が始まる合図、隅田川の川開きが行われる五月二十八日の夜空に、見事な大輪の花が咲いた。両国橋の下流に浮かぶ花火舟から上がった花火に、詰めかけた人々の歓声がわき上がる。両国橋の上。隅田川に浮かぶ納涼船、川端に並ぶ船宿の座敷──そこに集まった江戸中の人が一斉に空を見上げ、その瞬間、夏のうだるような暑さが最高潮に達し、一種の快感さえ与えるのだった。 また一つ、打ち上げ花火が夜空に上がった。灼熱の閃光が大きな円を描くように広がり、轟音がようやく響いて、橙色の光がきらきらと降り注ぐ。 「か〜ぎ〜や〜!」 納涼船の舳先に陣取った魅録が、かけ声をかけた。 「た〜ま〜や〜!」 その魅録の隣で団扇を手にした可憐が続く。 「あら、可憐。玉屋はおかしいですわよ」 美童に酒を注いでいた野梨子が、困った顔で窘めた。 「え、どうして?」 「だって玉屋は……一昨年、失火の罪で江戸を追放されたんですのよ。可憐、忘れてしまったんですの?」 可憐は眼を丸く見開いて、ふるふると首を振った。 「まあ、可憐は去年は武家奉公で大変だったんですから、仕方ないですよ」 清四郎は、花火見物よりも食べ物に夢中の悠理のために、隅田川に浮かぶ幾多の納涼舟の間をするすると縫ってゆく小舟から、天ぷらを買い求めながら言った。 「そうだったの……だから、なんだか花火の数が少ないのね」 鍵屋玉屋が花火を競い合っていた時代は、両国橋の上流からは玉屋、下流からは鍵屋が花火を上げる決まりになっていた。見物人の口からは「かぎや」「たまや」のかけ声がしきりと上がり、皆、夏の始まりの日を夜更けまで楽しんだものだった。 「そりゃあ、この江戸で火事を出しちまったんだ。しかも、上様東照宮へ御参詣の前日ときたもんだ。追放ですんだだけありがたいと思うべきだろうよ」 「町が半分も焼けてしまったんですものね」 野梨子がため息を零す。江戸の町は火に弱い。玉屋から出た火はあっという間に燃え広がり、町の半分を焼いてしまったのだ。 「でもさあ……もうちょっと近くで花火、見たかったよね」 のんびりと言うのは、珍しく襟元をくつろげた美童である。白い胸元に風を送る扇子からは、えもいわれぬ薫香が立ち上っている。 彼らが乗る納涼舟は両国橋より下流、堅川にかかる一つ目橋の近くに浮かんでいた。確かに、花火舟からはちょっと離れている。両国の花火を見るには一番の特等席、両国橋には溢れんばかりの人が集まり、その橋桁には芸者衆を連れた大店の主人たちが、いくつもの舟を隙間のないほど浮かべていた。 「おやおや、一体誰のせいだと思ってるんですかね」 清四郎が言葉尻にちくりと針を忍ばせて、美童を見やった。 「そうですわ。せっかく剣菱のおじさまが用意してくださった舟ですのに、約束の刻限に遅れてきたのはどなた?」 「え、いや……だって、僕は売れっ子の役者なんだからさ。納涼舟や座敷に呼びたいって人がいっぱいで」 美童は目を白黒させながら、もごもごと言い訳を口にした。 「人気稼業の役者さんだからな、ご贔屓さんは大事にしねえとな」 「そ、そうだよ、魅録。毎年毎年、せっかくのお呼びを断るわけにもいかないんだよ」 「そうね、美童には美童の都合があるのよね」 可憐は嬉しそうに手を合わせて言った。 「じゃあ、来年は美童抜きで来ない? 美童はご贔屓さんに不義理をしないですむし、あたしたちはいい場所を取れるじゃない?」 「ええっ!?」 「そりゃいい考えだ」 顔が青ざめた美童を無視し、魅録がにやりと笑う。 「ぼ、僕を仲間はずれにする気?」 「あら、案外、川の上で会えるかもしれませんわよ。たとえば、大和屋さんの舟の隣になるかもしれませんし」 野梨子もまた容赦がない。大和屋のお内儀は美童の一番の贔屓で、美童を料亭に呼ぶためなら金に糸目をつけぬと聞いている。 「ちょ、ちょっと! 野梨子まで」 「なるほど、それがお互いのためになるかもしれませんな」 清四郎までが納得したかのようにうなずく。美童はたまらず、先程から食べ物を口に運ぶのに余念がない悠理に泣きついた。 「悠理〜、なんとか言ってよ」 だが、悠理は寿司を口に入れながら、無邪気に答えた。 「あたいは、食べ物があるならどっちだっていいじょ。花火なんかどうだっていいもんね」 さすがは食欲の塊、悠理の返事である。途端に、美童を除いた四人だけでなく、無言で川面を見つめていた船頭までもが笑いを零した。
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