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「美童、野梨子たちを連れて先に帰ってください」
 魅録の知らせで駆けつけた岡っ引きの利平やその手下たちが、堅川を浚っているのを横目で眺めながら、清四郎は言った。
「う、うん……」
 身体を竦め、野梨子と可憐は不安そうに身体を寄せ合っている。二人は素直に清四郎の命にうなずいたが、悠理だけはそうはいかなかった。
 人が落ちたと、気づいたのは悠理だけだった。丁度、今宵の目玉である「大柳」が打ち上がった瞬間で、悠理ががくがくと震えながら指さした一つ目橋の上に詰めかけた人々も、皆一心に空を見上げていて、何も気づいてはいないようだった。
 最初は、他の五人も悠理の言葉を信じなかった。彼らの船から橋の様子は見えはするが、川開きの今宵、花火の打ち上げ音と人々の歓声で満ちあふれ、同船の者たちの話し声がようよう聞き取れるほどの喧噪である。人が落ちた音など聞こえるわけがない。
 それでも、悠理は「人が落ちる音がした」と言った。清四郎は身体を硬直させた悠理を押しのけ、舟縁にしがみつくようにして暗く沈んだ水面を、それこそ目を皿のようにして見つめたが、人の身体が浮いてくる様子はなかった。
 しかし、悠理が嘘をつくとは思えない。魅録が素早く船頭に舟を岸につけるよう命じ、本所を取り仕切っている岡っ引きを連れて来、花火が終わって人が三々五々去ってゆくのを見計らって、ようやく川を浚い始めたのである。
「美童、悠理も一緒に」
 悠理は青ざめた顔で、岡っ引きたちが舟の上から竿を使うのを見つめている。美童がそその肩に手を置く。だが、悠理は身を震わせてその手を払った。
「あたい、ここで見てる」
「やめたほうがいいわよ、悠理。後は清四郎たちに任せて、あたしたちは家でおとなしくしてたほうが」
「そうですわよ。私たちがいても足手まといになるだけですわよ」
 可憐や野梨子の言葉にも、悠理はかたくなに首を振り続けた。
 利平となにやら話していた魅録が振り向く。
「悠理、いくらお前が男並みに強いと言ったって、土左衛門は見るもんじゃないぜ」
「そうだよ。夢でうなされるよ、きっと」
 美童が消え入りそうな声で言葉を重ねた。
「でも……あたいだけが見たんだから」
 橋から身を躍らせて落ちてゆく男の姿が脳裏に焼きついている。まるでからくり人形のように欄干を越え、逆さになって──白い着物が風を孕んではためいて、するりと身体から離れてゆきそうなくらいだった。
 どうして誰も騒ぎ出さないのだろう。花火に気を取られていたとしても、普通男の後ろや隣にいた人たちは、人がひとりいなくなったことに気づくだろうに。
「お前の気持ちは分かりますがね」清四郎の大きな手が悠理の背を押した。「今夜は帰るべきです。お前が見たという男が見つかれば、ちゃんと知らせてあげますから」
 美童の元へ押しやる。今度は悠理も抗わなかった。縋るような目で清四郎を見上げて、ようやく、うんとうなずく。
「事故か自殺か分かりませんが……少なくとも、お前が気に病むようなことじゃありませんよ。いいですね」
 悠理は、三人に囲まれるようにして日本橋の家に帰っていった。その姿を見送って、ぽつりと魅録が呟いた。
「清四郎……お前は事故だと思うか」
「さて、どうでしょうねえ。まあ、この混雑ですから事故はあり得るでしょうが……」
「俺は、自殺の可能性は少ないと思う」
「ほう?」
「この混雑だからな、川に自ら飛び込んだとしても、助けられる可能性が高いだろう。むしろ、悠理しか気づかなかったという方がおかしいぜ」
「なら……殺された可能性もあるということですね」
 清四郎は一つ目橋を振り返った。橋の欄干はそう高くない。背の高い彼らのみぞおち辺りだろうか。余程背の低い男でない限り、欄干を超えるのは難しくないだろう。しかし、これが事故でも自殺でもない──事件なのだとしたら、花火見物に来た人々があらかた帰ってしまった今となっては、下手人を見つけることなど出来はしないだろう。
「まあ、ともかく……骸が見つかればな」
 かがり火の盛大な光の下、川を浚う利平たちの姿を目を細めて見守りながら魅録が呟く。
「そうですね。見つかりさえすれば、悠理も気がすむでしょうし」
 しかし、この闇の中では難しいだろう。遺体が見つかっても身元が割れるかどうか。
 悠理の怯えたような表情も気になる。
 清四郎は、未だ塩硝の煙が流れる暗い空を見上げ、密やかなため息をついた。

 夜が明けて、ようやく遺体が見つかった。土左衛門ゆえに顔はふくれあがり、体中いたるところ傷だらけになっていたが、まだ二十代そこそこの若者だということだけは分かった。
 清四郎はすぐ悠理に伝えに行ったが、余程衝撃を受けたのか、まだ眠ったまま起きてきていないという。剣菱屋の女中に伝言を頼み、自身番屋で待っている魅録の元に行った。
 利平も下っ引たちも、見つかった男の身元を調べるために駆け回っていて留守だった。土左衛門も検死が終わったらしく、番屋から移されている。魅録は、本所を受け持ちにしている南町の定町廻り同心、堀田喜三郎と話をしていたが、清四郎を振り返って尋ねた。
「悠理はどうだった?」
「まだ、眠っているそうです。とりあえず、店の者に伝言を頼んできました」
「そうか、なら心配することもないな」
 ほっと、魅録が安堵の息を漏らす。
「それで? 亡骸はもう寺へ送ったんですか」
「ああ。この時季だからな。そのうえ土左衛門だ。身寄りを捜し出すより早く、腐っちまうんじゃないかって話になってな。一応、身体の特徴なんかは書き付けておいたが、似顔絵はあてにならないだろうよ。その代わりに着てたもんを取っておいたし、懐にこいつ──財布があった」
 床の上に置いてあったのは白い麻の着物と角帯、太縞の財布だった。どこにでもある、珍しくもない品で、これで男の身元が割れるとは到底思えない。清四郎は堀田に了承を得てから、財布を手に取った。
 まだ、財布は乾いていなかった。湿った紐をほどき、中に入っている金を確かめる。一朱銀が一枚に、あとは四文銭ばかりが五枚ほど。巾着切りも多い川開きの夜となれば、手持ちの金が少ないのも分かるが、もし入水するつもりで家を出てきたのならば、金など持たないのではないだろうか。
 掌の銭を見つめて清四郎が思案していると、魅録が財布を指さして言った。
「中にまだ入ってるぜ。みてみな」
 もう一度中に手を突っ込んでみる。指先に触れたのは、固い布の感触だった。
 それは、手作りと思われるお守り袋だった。赤い木綿の布で作られ、中には富岡八幡宮の守り札がはいっている。
「それしか手がかりがありませんから、とりあえず、利平に深川に向かわせました。あとは、一つ目橋近くの本所周辺をあたってみようと思ってます。川開きに行ってまだ帰ってこない男がいないかどうか──まあ、気の長い話ですが、あいつらの報告待ちですな」
 堀田が渋い顔で言う。
「そうですね……事故にしろ自殺にしろ、誰かに殺されたにしろ、これだけでは何も分かりませんしね」
 それに、男が川に落ちる前、回りにどんな人物がいたかなんて調べようがない。殺しだとしても、下手人があがる可能性はないに等しい。
 清四郎はため息をついた。骸が見つかったというだけで、悠理が納得するだろうか。逆に悠理の性格から言って、下手人を捕まえてやると息巻くのではなかろうか。
 魅録をちらと見やると、彼も同じことを考えているのか、眉根を寄せて何か考え込んでいる様子だった。
「ともかく、堀田さん。なにか分かったら、俺か、こいつのところまで知らせてくれ」
「分かりました」
 うなずいて、堀田は土左衛門の着物を手に、番屋を出て行った。
「俺たちができることもねえな」
 魅録が口惜しそうに呟く。今度ばかりは、清四郎もどうやって手がかりを掴めばいいのかさっぱり分からない。何しろ、男が川に落ちてゆくところを見たのは悠理一人なのだ。
「もう一度、悠理に会いに行ってみますか」
「それは構わないけどな、あいつの頭でどれだけ昨夜のことを覚えているか。あんまり、あてにしないほうがいいぞ」
 清四郎はそれには苦笑を返すしかできなかった。

 

 

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