-3-

 

 

陽が中天近くにまで昇り、夏の暑い一日はすでに始まっていた。
 じっとりと湿気を含んだ生ぬるい風が吹きつけ、天からは容赦ない陽の光が降り注いでいる。隅田川の川開きが始まってすぐ、お天道さままでもが喜び勇んで、一足飛びに真夏になったかのような天気である。隅田川沿いの道に落ちるわずかな影の下で、冷や水売りが「ひゃっこい、ひゃっこい」とよく通る声をかけていた。屋台に吊された風鈴が、時折思い出したようにか細い音をたてる。
 それを横目に、清四郎と魅録は日本橋駿河町に向かった。悠理の家は江戸一番の豪商で、呉服問屋を始め両替商、廻船問屋などを商っている。両国橋を渡って本所から両国に行き、日本橋に入って中山道に行き当たると右手に駿河町がある。そのほとんどを「剣菱屋」が占め、道一間ほどに張り出して庇下通道(ひさししたとおりみち)があり、剣菱屋と白抜きされた日よけ暖簾がずらりと並んでいる。
 剣菱屋の財力を世間に誇示する光景であった。
 駿河町に入ったところで、外で待っていたらしい美童が二人を認めて駆け寄ってきた。
 息を弾ませ、顔からは血の気が引いている。息を整える間もなく、美童は慌てたように言った。
「大変だよ、二人とも! 悠理の様子がおかしいんだ」
「おかしい?」
「おかしいって、どうおかしいんです?」
「それが、家の中を歩き回って、片っ端から火を消しているんだよ」
「火を?」
 清四郎は魅録と顔を見合わせた。ともかく、と美童が清四郎の袖を引く。
「悠理のことが心配でさ、野梨子と可憐と一緒に四半刻ほど前に来たんだけど……清四郎、どうにかしてよ」
 裏の切戸口から中に入ると凝った作りの庭がある。悠理が寝起きしている離れに行こうとすると、右手のほうから「お嬢さま!」という女の悲鳴が聞こえてきた。
 すぐに三人は声がした方へ駈けていった。
 青々とした紅葉の木が植わっている庭に、悠理はいた。髪はいつも以上に乱れ、もう昼が近いというのに寝間着姿である。その悠理を、可憐と野梨子がしがみつくようにして引き留め、その傍らで高箒を持ったまだ若い女中が泣きそうな顔になっている。
「悠理、一体どうしたんですか!」
 清四郎が叫ぶと、可憐と野梨子がはっと顔を上げた。
「清四郎!」
 その、気が緩んだ一瞬をついて、悠理の身体が二人の手からするりと抜け出した。そして女中が止めるのもかまわず裸足で、必死に地面を踏みつけた。
「お嬢さま、やめて下さい!」
 また、女中が悲鳴を上げた。慌てて、可憐と野梨子が再び悠理の身体にしがみつく。
 清四郎は駆け寄った。悠理の足下から、鼻をつく嫌な臭いと、燻った煙が上がっている。
 これは、肉の焦げる臭い──
「悠理、一体何をやっているんですか!」
 清四郎は叱りつけると同時に、悠理の身体を抱え上げた。悠理の足の裏は黒く焦げて、火ぶくれができている。足下に、半分ほど灰になった落ち葉があった。
「可憐、すぐに水を! 野梨子は、医者を呼んできてください!」
 可憐が井戸に走ってゆく。野梨子は外へ──清四郎は腕の中でじたばたと暴れる悠理を抱え、縁側に走った。
「放せっ! まだ、火が……!」
 これほどの火傷を負って痛くないわけがないのに、悠理は目を血走らせて、未だくすぶり続けている落ち葉を睨んでいる。
 と、悠理は何を思ったのか、ぐいと首を伸ばすと、自分を抱え上げている清四郎の腕に噛みついた。肉を食いちぎらんばかりの激しさで、腕を睨めつける目は狂犬のごとく血走っている。指が爪を立てて皮膚を引っ掻く。今にも指が折れてしまいそうなくらい、ありったけの力を籠めて。
 清四郎の細くしなやかな腕に、紅い血がしたたり落ちる。白絣の着物に紅い色が散った。
 だが清四郎は顔をしかめただけで、うめき声も上げなかった。手を緩めることもなく、ともかく、暴れる悠理を縁側に降ろした。逃さぬように、素早く肩を押さえつける。可憐が手桶に水を汲んで駆け寄り、清四郎の命令で悠理の足を捕まえようと懸命に腕を伸ばした。
 必死にもがく悠理の足が、その腕をすり抜けて可憐の顔を蹴り上げた。
「いたいっ!」
 可憐が顔を押さえて、甲高い悲鳴をあげる。
 その勢いで寝間着の裾がめくれ上がり、悠理の白く細い足が露わになった。清四郎を押しのけようと両腕もむき出しになった。襟元は乱れて、女にしては未熟な薄い胸まで見える。
 可憐は蹴られた額を右手で押さえ、左手で寝間着の裾を直そうとしたが、悠理は一層ひどく暴れた。
「仕方ない」
 清四郎は短く舌打ちをし、まるで狐憑きのように呻き、暴れまわる悠理に「少し、我慢をしてください」と呟いて、拳を握ると同時に容赦なく悠理のみぞおちをついた。
 うっと短いうめき声。悠理の身体が一度痙攣したように震えて、ぱたりと両手両足が畳の上に落ちた。同時に、可憐が泣き声のような深いため息を零し、放心したように畳に腰を落とした。

 野梨子が連れてきた蘭法医と清四郎が気を失った悠理の火傷を手当している間、魅録は未だ泣き顔の女中を縁側に呼んで尋ねた。 
「どういうことだ?」
「それが……あたしにもさっぱり分からないんです」
 娘はしきりとしゃくりあげながら言った。
「分かる範囲で構わないから、教えてよ」
 美童が娘の肩を優しく撫でながら言葉を添えた。娘は現金にも、ぴたりと泣きやんだ。赤く腫らした目を、美童に向けて何度も瞬きながら答える。
「あたしが庭のお掃除をして、ごみを燃やしていたら……突然お嬢さまが座敷から駆け降りてきて、火を消そうとしたんです」
「裸足のまま? 下駄も履かずにか?」
 魅録は庭を振り返った。沓脱石には、悠理の下駄がきちんと揃えて置いてある。誰かが直したのでなければ、悠理は下駄に足をつっかけもせず、そのまま庭に飛び降りて火を消そうとしたことになる。
 悠理ならば、裸足で庭どころか外までも駆け回りかねないが、いくらなんでもそんな無茶なことはしないだろう──そう、悠理が正気ならば。
「ええ、そりゃあもうものすごい顔で……お嬢さまがあんなに怒った顔は今まで見たことなかったし、裸足だし……あたし、思わず悲鳴をあげてしまって」
 悠理の剣幕を思い出したのか、ぶるり、と娘は身体を震わせた。
 魅録も思い出していた。あの血走った目、喉を振り絞るうめき声……そして、清四郎に噛みついたときの、猛犬のような狂気。
 思い当たることは、たった一つしかない。
 それでも、魅録は残りの可能性を信じて尋ねた。
「燃やしていたものは落ち葉以外に何かあったのか?」
「それはこの季節ですからあまりありませんけど、葉っぱとか下草の枯れたのとか……それくらいしか」
「じゃあ、何か悠理の大切なものを、燃やそうとしていたわけじゃないんだな」
「ええ、もちろんです。そんなこと、あたしがするわけありません」
 娘は憤慨して、魅録をきっと睨みつけた。剣菱屋の奉公人とはいえ、なかなか気の強そうな娘ではある。
「わかった、もういいぜ」魅録は手を振って、娘を解放してやった。
「……ねえ、まさかとは思うけれど」
 美童が声を潜めて、閉じられた唐紙の向こうを窺いながら囁く。
「また、悠理のあれ?」
「……としか思えないな」
 顎を撫でながら呟く。この季節だというのに寒気が襲ったのか、美童は自分で自分の身体を抱きしめた。
「そういえば、お前も言ってたよな。悠理が家中の火を消して回ってるって」  
「あ、うん。僕たちが剣菱屋に着いたとたん、女中頭がお嬢さまが変だって言ってきて。それで、家の中に入ったら、悠理が台所で竈に水をぶっかけてるところだったんだ」
「竈に?」
「昼餉の用意をしてたところらしくって、台所は水浸しになるし火鉢は灰神楽がたつしで、大騒動だったんだよ。可憐と野梨子が慌てて悠理を止めようとしたんだけど、さっきみたいに大暴れして誰も手がつけられなくて、それで、僕が魅録たちを呼んでこようと思って外に出たら、二人がここに来るのが見えたんだ」
「それから、さっきの騒ぎか……」
 可憐たちが止めるのを振り切って、悠理は庭に出てしまったのだろう。
 竈に火鉢。そしてたき火。──火だ。悠理は火を懼れている。
 いや、悠理に取り憑いているなにかが、火を懼れている。
 それは一体なんだ?
 魅録が腕を組んで考えていると、するり、と唐紙が開いた。
 野梨子に見送られて、医者が出てきた。医者の表情は読めず、そこから悠理の容態を推察することはできなかった。すぐ後ろにまだ若い弟子が、薬箱を手に続く。野梨子の顔は涙でゆがみ、魅録と美童の傍らを通り過ぎる際、目を向けて深いため息をついた。
 悠理は布団に寝かされていた。ぴくりとも動かないのは、まだ意識が戻っていないからか。先ほどの騒動が夢幻のごとく、広い室内は時間が止まったかのように深閑としている。
 可憐が団扇を手に悠理に風を送り、清四郎は悠理の枕元で、時折、手ぬぐいで悠理の額に浮かぶ汗をぬぐっていた。
「悠理の怪我は?」
 魅録は縁側に座ったまま、難しい顔つきの清四郎に尋ねる。
「しばらく、寝たきりのようです」
「そんなにひどいのか?」
「足の裏の火傷ですからね。痕が残るかもしれませんし、治りきらないうちは歩かないほうがいいそうですよ。その他に怪我はありませんが……」
 清四郎はちらりと悠理をみやって、口をつぐんだ。枕元に置かれた桶に手ぬぐいを浸し、また、悠理の額をぬぐう。眉根を寄せて、唇を噛みしめている。
「そうか……」
 痕が残るという清四郎の言葉に、魅録の心に悔しさがこみ上げてくる。だが魅録以上に、清四郎は自分の力のなさを呪っているに違いない。
「清四郎……悠理はやっぱり、何かに取り憑かれたんじゃあ」
 美童が、恐る恐るといった風に尋ねる。清四郎は肯定も否定もしなかったが、幽霊に取り憑かれやすい悠理のことだから、それしか導き出される答えはなかった。
「女中の話だと、悠理は目が覚めたときからおかしかったそうよ」
 可憐が蒼い顔で言葉を添えた。
「昨夜の疲れがでてるだろうからって、起きるまで寝かせておいていたらしいんだけど、突然ふらりと台所にやってきて、竈に目をやったとたん形相が変わったんですって」
「目が覚めてからすぐなら……やっぱり原因は昨夜のあれだろうな」
 両国の川開きの中、川に飛び込んだ若い男。悠理だけが、その男の死の瞬間を目にしていた。
「だから、あんなに気にしていたんだ……」
 美童が首を振った。
「そう……かもしれませんね。思えば、昨夜の悠理はどこか様子が変でしたから」
 清四郎は天井を仰いで深いため息をついた。もっと早く気づいていれば──後悔が胸に押し寄せてくるが、といって、悠理が霊に取り憑かれるのを防ぐことなど誰にもできはしない。
「これで、事故……の可能性は少なくなったな」
 魅録の呟きに、清四郎がうなずいた。
「それじゃあ、亡骸は見つかったの?」
「見つかったが、何処の誰だか分かりゃしない。若い男ってだけで、手がかりはほとんどないのさ。頼りは、財布に入ってた富岡八幡宮のお守りくらいだな。利平たちが深川と本所をあたってみるとは言ってたが、あてにはできない」
「悠理に霊が取り憑いたときに、お前の名前は? って尋ねてみたらどう?」
「そう、うまくいけばいいんですがね」
 清四郎の不安どおり、目を覚ました悠理は先程までの記憶はまったくなかった。目を開けるなり覚えのない足の痛みに大騒ぎし、慌てて可憐が痛み止めの薬を飲ませるやらなんやら──しばらく寝たきりの命に不平は零すわで、また一騒動が起きた。
 そして、川に落ちた男が、再び悠理の身体を乗っ取る様子はまったくない──五人はただ、岡っ引きたちの報告を待つしかできなかった。
(*)庇下通道
現代でいうアーケード。
公道に1間(約180センチ)ほど庇が張り出して、客の通り道を確保していた。

 

次へ

時代劇部屋