陽が中天近くにまで昇り、夏の暑い一日はすでに始まっていた。
じっとりと湿気を含んだ生ぬるい風が吹きつけ、天からは容赦ない陽の光が降り注いでいる。隅田川の川開きが始まってすぐ、お天道さままでもが喜び勇んで、一足飛びに真夏になったかのような天気である。隅田川沿いの道に落ちるわずかな影の下で、冷や水売りが「ひゃっこい、ひゃっこい」とよく通る声をかけていた。屋台に吊された風鈴が、時折思い出したようにか細い音をたてる。
それを横目に、清四郎と魅録は日本橋駿河町に向かった。悠理の家は江戸一番の豪商で、呉服問屋を始め両替商、廻船問屋などを商っている。両国橋を渡って本所から両国に行き、日本橋に入って中山道に行き当たると右手に駿河町がある。そのほとんどを「剣菱屋」が占め、道一間ほどに張り出して庇下通道(ひさししたとおりみち)があり、剣菱屋と白抜きされた日よけ暖簾がずらりと並んでいる。
剣菱屋の財力を世間に誇示する光景であった。
駿河町に入ったところで、外で待っていたらしい美童が二人を認めて駆け寄ってきた。
息を弾ませ、顔からは血の気が引いている。息を整える間もなく、美童は慌てたように言った。
「大変だよ、二人とも! 悠理の様子がおかしいんだ」
「おかしい?」
「おかしいって、どうおかしいんです?」
「それが、家の中を歩き回って、片っ端から火を消しているんだよ」
「火を?」
清四郎は魅録と顔を見合わせた。ともかく、と美童が清四郎の袖を引く。
「悠理のことが心配でさ、野梨子と可憐と一緒に四半刻ほど前に来たんだけど……清四郎、どうにかしてよ」
裏の切戸口から中に入ると凝った作りの庭がある。悠理が寝起きしている離れに行こうとすると、右手のほうから「お嬢さま!」という女の悲鳴が聞こえてきた。
すぐに三人は声がした方へ駈けていった。
青々とした紅葉の木が植わっている庭に、悠理はいた。髪はいつも以上に乱れ、もう昼が近いというのに寝間着姿である。その悠理を、可憐と野梨子がしがみつくようにして引き留め、その傍らで高箒を持ったまだ若い女中が泣きそうな顔になっている。
「悠理、一体どうしたんですか!」
清四郎が叫ぶと、可憐と野梨子がはっと顔を上げた。
「清四郎!」
その、気が緩んだ一瞬をついて、悠理の身体が二人の手からするりと抜け出した。そして女中が止めるのもかまわず裸足で、必死に地面を踏みつけた。
「お嬢さま、やめて下さい!」
また、女中が悲鳴を上げた。慌てて、可憐と野梨子が再び悠理の身体にしがみつく。
清四郎は駆け寄った。悠理の足下から、鼻をつく嫌な臭いと、燻った煙が上がっている。
これは、肉の焦げる臭い──
「悠理、一体何をやっているんですか!」
清四郎は叱りつけると同時に、悠理の身体を抱え上げた。悠理の足の裏は黒く焦げて、火ぶくれができている。足下に、半分ほど灰になった落ち葉があった。
「可憐、すぐに水を! 野梨子は、医者を呼んできてください!」
可憐が井戸に走ってゆく。野梨子は外へ──清四郎は腕の中でじたばたと暴れる悠理を抱え、縁側に走った。
「放せっ! まだ、火が……!」
これほどの火傷を負って痛くないわけがないのに、悠理は目を血走らせて、未だくすぶり続けている落ち葉を睨んでいる。
と、悠理は何を思ったのか、ぐいと首を伸ばすと、自分を抱え上げている清四郎の腕に噛みついた。肉を食いちぎらんばかりの激しさで、腕を睨めつける目は狂犬のごとく血走っている。指が爪を立てて皮膚を引っ掻く。今にも指が折れてしまいそうなくらい、ありったけの力を籠めて。
清四郎の細くしなやかな腕に、紅い血がしたたり落ちる。白絣の着物に紅い色が散った。
だが清四郎は顔をしかめただけで、うめき声も上げなかった。手を緩めることもなく、ともかく、暴れる悠理を縁側に降ろした。逃さぬように、素早く肩を押さえつける。可憐が手桶に水を汲んで駆け寄り、清四郎の命令で悠理の足を捕まえようと懸命に腕を伸ばした。
必死にもがく悠理の足が、その腕をすり抜けて可憐の顔を蹴り上げた。
「いたいっ!」
可憐が顔を押さえて、甲高い悲鳴をあげる。
その勢いで寝間着の裾がめくれ上がり、悠理の白く細い足が露わになった。清四郎を押しのけようと両腕もむき出しになった。襟元は乱れて、女にしては未熟な薄い胸まで見える。
可憐は蹴られた額を右手で押さえ、左手で寝間着の裾を直そうとしたが、悠理は一層ひどく暴れた。
「仕方ない」
清四郎は短く舌打ちをし、まるで狐憑きのように呻き、暴れまわる悠理に「少し、我慢をしてください」と呟いて、拳を握ると同時に容赦なく悠理のみぞおちをついた。
うっと短いうめき声。悠理の身体が一度痙攣したように震えて、ぱたりと両手両足が畳の上に落ちた。同時に、可憐が泣き声のような深いため息を零し、放心したように畳に腰を落とした。