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しかし、六月に入っても、男の身元は杳として知れなかった。
 悠理といえば、あれ以来、霊に身体を乗っ取られはしなかったが、確かに身体の不調を訴えていたし、珍しく清四郎の言うことを聞いて布団の中でおとなしくしていた。
 足の火傷がうずいて、さすがの彼女でも歩き回ることができず、悠理を心配して可憐や野梨子が持ってくる食べ物に、布団の中から億劫そうに手を伸ばして、もそもそを食べているだけである。
 それでも、悠理は一縷の望みを込めて「もう成仏しちゃったんじゃないの? 亡骸も見つかったことだしさ」と言ったが、時折布団から這い出してよつんばいで縁側に行き、怠そうに腰を下ろすしかできない悠理の体調を考えると、清四郎はうなずくことはできなかった。何か伝えたいことがあったからこそ、悠理に取り憑いたのであって──剣菱屋の火を消したところで霊が満足できたとは思えず、少なくとも、男がどこの誰なのかが分からない限りは安心できない。
 一方、足の火傷は──日頃の体力のお陰か驚異的な快復力を示し、まもなく包帯が取れるという頃。
 ようやく、男の身元が割れた。
 すぐに清四郎と魅録の二人は、呼びに来た利平の後に続いた。蝉時雨の耳障りな埃っぽい道を駆け、六間堀川沿いにある本所北森下町に向かう。
 表通りに、額に汗を浮かべた堀田が待っていた。
「男の名は仙太、塩売りをしているそうです」
 堀田は説明をしながら、仙太が住んでいたという裏長屋に二人を案内する。この季節、風が全く通らない裏長屋ではすべての腰高障子が外されて、よれよれの浴衣を着た女たちが団扇を片手に気怠そうに話をしていた。
 まず利平が先に入って、仙太の隣に住むという女を呼んできた。襟元を大きく広げ、ほつれた髪が汗で首筋に貼りついていた中年の女は、身なりのよい清四郎と魅録を目にしたとたん、慌てたように衿を直して髪を髱に撫でつけた。
 女は、おせきと名乗った。そして、媚びるように堀田を見上げる。
「さっき、利平が尋ねたように、確かに仙太なんだな?」
 その視線をかわして、堀田はもう一度確かめた。おせきは大きくうなずいてから魅録にちらりと目をやり、
「あの……こちらのお侍さんが、仙太さんと一体どんな関係があるっていうんです?」
 こわごわといった様子で尋ねる。
「仙太が川に落ちたのに気づいてくれたお人だ。失礼のないようにしろよ」
 ああ、とおせきはうなずく。だが、ありがとうとも言わず、困った顔で堀田を見やるだけだった。
 どうやら仙太は、近所づきあいというものをほとんどしていなかったらしい──清四郎は、仙太にたどり着くまで、川開きの日から十日以上かかってしまった理由に思い至った。
「分かる範囲で構わないんですが……仙太さんについて教えてくれませんか」
 清四郎は尋ねた。
「そりゃ、八丁堀の旦那の頼みってなら仕方ありませんがね、わたしが知ってることなんて、ほとんどありゃしませんよ」
「ええ、それはもちろんです。仙太さんに身寄りは?」
「さあ、いないんじゃありませんか? 仙太さんがこの長屋に引っ越してきたのは一年くらい前だけど、そのときも一人だったし──親兄弟らしき人が尋ねてくることもありませんでしたからね」
「誰一人としてか?」
 魅録が尋ねると、おせきは首をかしげてしばらく考え込むふうをした。そして、思い出した──と一つうなずき、
「そうそう……何度か女が尋ねて来てましたよ。年増の、粋筋の女って感じでね。仙太さんのいい人なのかもしれませんねえ。仙太さんにしなだれかかって、二人で長屋を出て行くところを見たことありますよ」
 その時の様子を思い浮かべたのか、おせきは鼻に皺を寄せるようにしてふふっと笑いを零す。
「仙太さん、そりゃ金回りはよくはなかったけど、見栄えは結構いい男でしたからね、あの女から小遣いをもらったりしてたのかもしれませんねえ。時折、急に金遣いが荒くなったりしてましたから……それに、女の方は仙太さんにべたべたしてましたけど、仙太さんは、どっちかっていうと迷惑そうな顔つきでしたしね」
 魅録も、つられたようににやりと笑った。
「お前から見ても、仙太は抱かれたいようないい男だったんだな」
「まあ、いやですよ、旦那」
 おせきは身をくねらせて、魅録の背をぶつ仕草をした。途端に、えへんと堀田が咳払いをしておせきに注意を促す。
「その、仙太の女の名前を覚えてないのか」
 堀田はおせきと魅録の間に割り込みながら、厳しい声で訊いた。
「そうですねえ……仙太さんがその女の名を呼んでた覚えはありませんけど……最初にここに来たときわたしに仙太さんの家を尋ねて、名前を言ったような気もしますけどね」
 おせきはこめかみに手をあてて考え、ちらりと上目遣いに魅録を見やると、にっかりと笑って手を差し出した。
 魅録は渋い顔で、おせきに小粒を握らせる。とたんにおせきは思い出したと大仰に手を叩き、
「そうそう、確か、お辰──とかいいましたっけ」
 ついでに、仙太が出入りしている塩問屋を教えてもらった。金が効いたのか、おせきは今度は素直に答えた。深川に店を構える、かなり大きい問屋だった。
「清四郎、ほかに訊きたいことはあるか?」
 財布を懐にしまいながら、魅録は清四郎を振り返った。
「そうですね……」
 土左衛門の姿しか知らない清四郎には、年増の女の相手をする仙太は想像がつかなかったが、塩売りだけで生活するには確かに厳しいものがあるだろう。塩売りを始めるには元手がいらず、売り物の塩や天秤棒、塩を入れる笊や量りの升まで、必要な一式を問屋から借りられるが、無論雨の日は売りに出られない。顧客を掴むまでが苦労の連続だろうし、ようやく掴んだ客のために、たとえば一握り分の塩をこっそりとおまけするぐらいの気遣いも必要だ。そのおまけも、過ぎればもちろん売り上げが減る。微妙なさじ加減が重要なのだ。
 おせきが言うように、仙太が女好きのするいい男だったのなら、客の心を掴むのは容易だったかもしれない。裏長屋の女房たちだけでなく、与えられた家で旦那の訪れを待っている妾や料理屋の女将──年増の女と出会う機会は多かっただろう。
 塩を売りに来たついでに、淋しい独り寝の夜を送っている女の相手をする──考えられることだった。
 そして、仙太が相手にしている女が複数いたとしたら? どうやら、仙太の家にまで来ていたのはお辰一人のようだが、だからといって関わりのある女が一人きりとは決まっていない。
 女同士が嫉妬の火花を散らし、仙太を我がものにしようと争ったあげく、愛しさ余って憎さ百倍、一緒に両国の花火を見に来て独り占め、咄嗟に男恋しさから川に突き落としてしまったのだとしたら。
 あり得ない話ではない。
 しかしその場合、悠理に取り憑いた仙太が憎むべきはその突き落とした相手であって、<火>ではないはずだ。
 清四郎は、俯けていた顔を上げておせきに訊いた。
「おかしなことを聞きますが……仙太さんは火を怖がってませんでしたか?」
「火?」
 おせきがくるりと目を見開いて聞き返した。
「ええ、火です。たとえば、幼いころ大火事を経験していたら、火を怖がるようになったりするでしょう。仙太さんは、そんな経験をしているんじゃないか、と思うんですが。そういう話はしてませんでしたか?」
「さあねえ……仙太さんはあんまり自分の話をしなかったから、火事に遭ったことがあるかどうかなんて、わたしには分かりゃしませんけど。火ねえ……別に、火鉢も使ってましたし。ああ、でも、あの人が自分で食事の支度をしているところは、あまり見なかった気もしますけどね」
「米も炊かなかったんですか」
「そりゃ、それくらいはしてましたけどね、七輪を出してお菜を作ってるのは見たことなかったですね。だってねえ、ほら──仙太さん、結構いい男なもんだから、長屋のみんなが煮物やらなんやら、差し入れとかしょっちゅうしていたもんでね」
 おせきもその一人だったようで、恥じ入ったように笑いを零した。
 気になるんでしたら、仙太さんの家を確かめてみたらどうです? ──とおせきは長屋の奥を指さして言った。
 風のない裏長屋の通りは、どぶのすえたような臭いが充満していた。清四郎たちはそれを固辞して、裏長屋を離れた。
 その後、仙太が出入りしていた塩問屋に行き、話を聞いてみたが詳しいことは何も分からなかった。ただ、仙太が回ってた場所は深川佐賀町周辺ということで、おそらくお辰という女はその辺りに住んでいるのだろう。
 利平が深川を縄張りにしている岡っ引きに話をしてみると言い、清四郎と魅録は利平に後を任せて剣菱屋に戻った。


 

 

 

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