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 お辰はすぐに見つかった。利平の案内で、清四郎と魅録はお辰の元へ向かった。
 対面した女は佐賀町の仕舞屋に住む、長唄の師匠をやっている三十すぎの年増だった。粋筋の女らしく、大きく抜いた衿からうなじがするりと伸びて、滴るような色気を放っている。
 仙太が川に落ちて死んだと伝えると、お辰は一瞬驚いたように目を見張り顔色を失ったが、泣きわめきはしなかった。清四郎たちの視線から顔をそらし、力なく俯いて「そう、なんですか……」と呟いただけだった。
 仙太が川に落ちたあの日から、すでに半月が過ぎている。お辰の家に訪れるどころか、塩を売りにさえ来なかったのだから、何かあったのではないかと予感がしていたのかもしれない。
 清四郎は、川開きの夜、仙太と一緒ではなかったかとお辰に尋ねた。だが、弟子たちと両国橋に行っていたとの答えが返ってきただけだった。そして、お辰は不思議そうに首をかしげながら、一言付け加えた。
「仙太さん、川開きに行ってたんですか。あの人、わたしが誘っても、花火にゃ興味ないの一点張りだったんですけどねえ」
 この一言は、清四郎の心にひっかかった。花火に興味のない男がなぜあの日、一つ目橋にいたのか。偶然通りかかったというわけではあるまい。川開きの花火は例年のことで、一年でも江戸に住めば、隅田川周辺の大混雑は容易に予測がつくはずだった。余程の用事がない限り、混雑を避けて通るか家に籠もっているのではないだろうか。
 それとも、興味がないとお辰に言ったのは全くの嘘だったのか。
 仙太にほかに女がいたかどうかの魅録の問いに、お辰は憤然となって否定した。自分以外の女がいるのならば、自分には絶対分かると言い張るのである。目尻をつり上げて魅録を睨みつけるその様は、お辰が嘘を言っているようには見えなかった。
 女同士が仙太を我がものにするために争い、そのうちの一人が思いあまって仙太を殺した──その線はどうやらないようである。
 しかし、お辰のお陰で分かったこともある。
 仙太は蒲田の出なのだそうだ。塩売りを始める前の話はまったくしなかったが、江戸に出てきたのは五年ほど前で、今も蒲田には両親が住んでいるという。
 清四郎と魅録は顔を見合わせた。こうなったら、蒲田にまで行くしかない。
 お辰の元を辞去する間際、思い出したように堀田が懐から、仙太の財布に入っていた富岡八幡宮のお守り袋を取り出してお辰に見せた。
 お辰は、ああ──とうなずいた。仙太が肌身離さず持っていたお守り袋で、決してお辰にも触らせなかったのだそうだ。お辰は、蒲田にいる母親が、江戸に出る際持たせたものだろうと思ったそうだが、そう仙太に尋ねても曖昧に笑っただけで答えなかったらしい。
「でももしかしたら……今思えば、ですけどね。おっかさんじゃなくて、昔の女が持たせたものかもしれませんねえ。だから、わたしにも触らせなかったんじゃないですか」
 それを聞いて、堀田が苦い笑いを零した。お辰の言うように仙太の昔の女が渡したものだとしたら、その女を捜し出すことは、それこそ雲を掴むような話である。
「蒲田まで、行くおつもりですか」
 お辰の家を出たあと、紅く燃える西日を浴びながら堀田が尋ねた。眉をひそめたその顔は、「そこまでなさらなくても」と無言で語っていた。
「そうですね……ここまできたら、もう、乗りかかった船ですから」
 清四郎は苦笑混じりに答えた。
「ここまで調べても何もないんですから、こいつは事故だと思いますがねえ。魅録さんは、どう思います?」
 利平が一番後ろをついてきながら、小首をかしげる。魅録はくいと頭を傾けて、懐手で俯きながら歩いている清四郎を見やって答えた。
「まあ、事故だろうと殺しだろうと、自殺だろうと……こいつには関係ないってことさ」
「そんなことはありませんよ」
「悠理が絡んでいるから、必死になってるだけさ。そうだろう?」
 笑い含みに言う魅録に、堀田が不審の目を向ける。
「剣菱屋のお嬢さんが、どう関係あるんです? 仙太が川に落ちるところを見た、ただひとりの方とは聞いてますが」
「いえ、ただ悠理が非常に気にしているだけです。僕たちがもたもたしていると、自分で調べると言い出しかねないので」清四郎は口の端を持ち上げるようにして笑った。「そうなると堀田さんたちの探索の邪魔にしかなりませんから、それだけは避けなければと、僕が必死に成らざるを得ないんですよ」
 堀田も悠理のお転婆ぶりは知っているのだろう。「それは大変ですね」と同情のまなざしで清四郎を見、少し考え込んだ後利平を顎で示しながら言った。
「それでは、蒲田には利平をお連れください。わたしは見回りがありますのでお供はできませんが、なにかありましたら奉行所まで連絡をくださればすぐに参りますので」
「お手数をおかけします」
 清四郎は足を止め、堀田に向けて頭を下げた。丁重な清四郎の応対に慌てた堀田の背中を、魅録が宥めるように叩く。
「蒲田には、明日行くのか?」
「そうですね……早いほうがいいでしょう。悠理の身にいつなにがあるか分かりませんし……ですがその前に、試したいことがあります」
「試したいこと?」
「堀田さん、一日で構わないんですが、そのお守りを貸していただけませんか」
「これをですか?」
 堀田は首を傾げながらも、懐から赤い布のお守り袋を取り出して清四郎に渡した。
「構いませんが、どうなさるおつもりです?」
 だが、清四郎は答えなかった。掌に載せられたお守り袋を握りしめ、路地に刻まれた己の影をじっと見つめているだけだった。 

 まもなく、暮れ六つ(午後六時頃)の鐘がなる。夏の陽は残光を辺りにまき散らしながら西の空に沈もうとしているのに、風はそよりとも吹かず、未だ熱を持った空気が身体にしつこくまとわりつく。いつも涼しい顔を崩さない清四郎にしては珍しく額に汗を浮かべていた。
 魅録とは、永代橋を渡ったところで別れた。堀田も一旦南町奉行所に戻ると言うことで、利平を連れて魅録の後に続いた。そして清四郎は一人、剣菱屋に向けて駈けている。
 お守り袋で、何かが分かるとは思ってはいない。だが、分からないまでも、何かが変わる──そんな気が先程からしきりとしている。
 仙太が肌身離さず持っていたお守り袋なのだから、<仙太の思い>なるものがこの袋に籠められているのではないか。その思いが、悠理の心の中に入り込んでしまった仙太を呼び出してくれるのではないか──と。
 そんな一縷の望みを胸に抱き、清四郎は剣菱屋の裏口に回り、案内を請うて悠理の部屋に行った。
 悠理は縁側に足を投げ出すように座って、あかね色に染まる空をぼうっと見上げていた。ぴんぴんと髪の毛が飛び跳ねている頭がゆらゆらと揺れ、身体を支えている細い手の横には、お椀がみっつも並んでいる。
 声をかけずに近づくと、気配に気づいたのか、悠理は頭を仰け反るようにして清四郎を見た。
「あれ? 清四郎一人? 魅録は?」
 逆さまになった頭からのんびりとした声が落ちてくる。清四郎の苦労など思いも寄らぬとばかりの。
「屋敷に戻りましたよ。明日の準備がありますから」
 清四郎は悠理の隣に腰掛けた。縁側に置かれたお椀はからっぽで、つんと鼻をさす酢の臭いがした。
「相変わらず、食欲はあるようですね。ところてんでも食べていたんですか?」
「おまえ、鼻がいいな」悠理はにっかりと笑った。「さっき、外にところてん売りがいたからさ、買ってきてもらったんだじょ」
 満足したとばかりに、お腹をさする。
 もうすぐ夕餉の時刻なのに──という言葉を、清四郎は飲み込んだ。常の悠理なら、夕餉の前にところてんの三杯や四杯──いや十杯くらいは平気で食べるだろうし、それに比べると、たった三杯で満足している事実に不審を感じるべきである。
 やはり──と思う。今もまだ、悠理の中に仙太はいる。
 清四郎はどこか顔色の冴えない悠理を見つめた。
 華奢な肩を力なく落とし、背を小さく丸めている。いつも元気いっぱいに飛び跳ねている悠理らしくない、年寄りじみた丸い影が、鬱金色に包まれた縁側から座敷にかけて長く伸びていた。
 今の悠理は、野梨子よりも壊れやすい人形のようにも見える。出来映えが気に入らぬと、人形師が地に叩きつけて壊してしまいそうなほどに。
 清四郎は手を伸ばして悠理の肩を抱いた。悠理も、抗うことなく清四郎の胸に頭を載せた。そこにかかる重みは、悲しくなるほどに軽い。今まで床に入っていたのか、着崩れた浴衣から悠理の白い肌が覗いている。短めの裾から伸びた細い足が所在なげにぶらぶらと揺れ、その両足に巻かれた包帯の白さが庭の片隅から忍び寄ってきている夜の影に映えて、目に突き刺さるほどに痛々しかった。
「なあ──清四郎」
「なんです?」
「さっき、明日の準備って言ったよな? 明日もどっかに行くの」
 何気ないふうに悠理は尋ねているが、その声の中に気弱な響きが秘められていることに清四郎は気づいた。
 可憐に野梨子、そして美童が芝居の合間を縫って入れ替わりに剣菱屋を訪れているが、いつまた身体を乗っ取られかねない不安に、悠理は無意識のうちに清四郎の存在を求めているのだろう。
 だが、それでも──悠理の傍にいるよりも、仙太の足取りを掴むことのほうが重要なのだ。
「ええ。蒲田まで行ってきます」
「蒲田? そんな遠くまで?」
 驚いたように悠理は身を起こした。清四郎を見つめるその視線が、咎めるように強まる。
「なにも、明日じゃなくても」
「仙太の故郷(ふるさと)が分かったんですから、早いほうがいいでしょう?」
「それは……そうだけど」
 悠理の顔がゆがむ。自分の為だと頭では分かってはいても、心は納得できてないというように。
「明日……はやめにしろよ。やっと、包帯が取れるんだ。とうちゃんが床上げの祝いだって、八百善から料理を取り寄せるって言ってたし。蒲田からじゃあ、戻ってくるの遅くなるよな」
「多分、夜になるでしょうね」
「それじゃあ」
「悠理、すみませんが予定を変えることはできません。僕と魅録だけでなく、利平も連れて行くんですから」
 意地悪と罵られようと、清四郎は意志を曲げるつもりはなかった。だが、怒りの声は投げつけられず、悠理の顔がそれと分かるほどに落胆の色に染まる。俯いたまま、いざるようにして清四郎から離れた。悠理の肩に置いていた手が空に浮いて、膝の上に落ちた。
 悠理は、足下に忍び寄ってくる夕闇に視線を落としたまま、ぽつりと呟いた。
「でも……終わったらすぐ帰ってくるんだろ?」
「もちろん、すっ飛んで帰ってきますよ」
 途端に、悠理は顔をあげた。満面の笑みで清四郎に笑いかけ、「約束だかんな」と念押しをする。
 差し出される右手の小指。清四郎は口元に笑みをはきながら、その指に小指を絡めた。再び繋がった二人の影が、座敷に満ちてきた夜の影に飲まれてゆく。
「よっし、清四郎に全部任せたかんな。明日は早いんだろ? 早く帰れよ」
 悠理は清四郎の背を、ばしんと叩いた。それくらいではびくともしないが、清四郎は痛そうに顔をしかめてみせてから、思い出したように、懐からお守り袋を取り出した。
「何それ」
「仙太が持っていたお守り袋です」
 悠理の手を取り、その上に載せる。矯めつ眇めつお守り袋を見て、悠理は首を傾げた。
「これがどうしたんだよ」
「とりあえず、今夜身につけておいてください」
「……そんで?」
「明日の朝、早いですが取りに来ますので、何かあったら教えてください」
「何かって、何?」
 悠理の不審顔もよく分かる。しかし、清四郎にも何が起こるのか──それとも起こらないのかよく分からない。悠理の手をとり、両手で包み込むようにして清四郎は言った。
「僕にも分かりません。ですが……何かが変わる気がするんです」
「なんか、あたいの身に悪いことが起こるんじゃないだろうな?」
 そう尋ねる悠理の顔は、まるで霊に出会ったかのように青ざめている。今度は、分かりませんとは言えなかった。清四郎は悠理を勇気づけるようにその手をもう一度強く握りしめ、
「大丈夫ですよ。もしも何かあったとしても……僕が何とかしますから」
 悠理は頼りなさそうに清四郎を見上げ、こくんと、顎をひくようにして小さくうなずいた。

 

 

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