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夜になって風がでてきた。広大な屋敷の離れまでは、ようやく眠りにつこうとする剣菱屋の密やかなざわめきも届かず、軒につるした風鈴が涼やかな音をたてているだけである。
 座敷に満ちる闇。枕元に置かれた行灯の頼りない光が、茫と、萌黄色の蚊帳を照らし出している。
 悠理は布団に入って、清四郎から預かったお守り袋をじっと見つめていた。手作りの袋はごわごわとした生地で、角などすり切れている。ところどころ赤がくすんでいるのは、仙太の手垢がついているからだろうか。それとも、使い込んだ着物の端切れで作ったから、古びた感じがするのだろうか。それだけ大事にしていたのだろう──仙太も、仙太にこのお守り袋を渡した相手も。
 指先から伝わってくる感触は、職人の手を連想させた。年を重ねたのと同じだけ使い込まれた指先。ひびわれ、あかぎれができ、筋張った両の手。そこから作り出される精緻な装飾品は、剣菱屋の中だけでなく悠理の部屋にも溢れている。
 螺鈿細工の硯箱。金銀の縫い取りがまばゆい振り袖。豪奢な簪や蒔絵の櫛に笄。磨き込まれた鏡に、座敷に並ぶ何棹もの桐箪笥。
 何故か次々に庶民には手の届かない贅沢品が目に浮かび、最後に人相書きでしか目にしていない仙太の顔が脳裏をよぎって、悠理ははっと我に返った。
「おっかしいなあ……」
 思わず零した呟きが、静寂に満ちた室内に響く。
 清四郎の話だと、仙太は塩売りをなりわいにしていたという。手業で稼ぐ職人とは違い、棒手振りは身体がなによりの商売道具である。苦労知らずの悠理から見れば、同じ「庶民」ではあるが、実際、仕事の内容から言えば両者は遠く隔たっている。繋ぐものはなにもない。
 そこに思い至って、悠理は思わず「あわわ」と間抜けな奇声を上げながら、お守り袋を慌てて放り投げた。
 赤い袋は大きな弧を描き、行灯の隣にぺたりと着地した。丸い灯りの片隅で、お守り袋は存在を誇示するかのように光と影を伴い、しぶとくも悠理の視界に留まっている。畳にたどり着いた瞬間の音までもが耳底に貼りつき、恨み言の如く幾度も繰り返される。 
「なんか……やな予感がする」
 先程から背筋を震わせるような寒気が、ひたひたと迫っている気がする。暗闇から、闇よりも濃い身体で這いずって来、悠理を捕まえようと触手を伸ばしてくる。
 ざあっと、音をたてて全身から血がひいていった。
 部屋から抜け出したい──!
 しかし、悠理の身体は動かなかった。恐怖の塊が、布団の上から悠理の身体に重くのしかかっている。
 頭を上げて、恐怖の正体を見極める勇気などなかった。一目見てしまったら、そのものに囚われてしまう。
「清四郎のばか〜」
 せめて、傍にいてくれたらよかったのに。
 お守り袋を渡すなり、さっさと自宅に帰っていった清四郎の冷たさが憎たらしい。何かあったとしても自分が何とかするとか言ってたけど──傍にいてくれなきゃ意味がないじゃないか。
 言うとおりにするんじゃなかった。あんなお守り袋、受け取らなきゃよかった──
 口の中で後悔の言葉を呟いた途端、呼び寄せられるように、目がお守り袋に行った。
 気づけば、風鈴はりんとも音をたてない。
 風は止まったのに、お守り袋の上に落ちる影が揺れている。行灯の光が、ちかちかと瞬く。油にはまだ余裕があったはずなのに、今にも消えてしまいそうなほどに、急速に光を失いつつある。
 悠理は無理矢理引っぺがすようにして顔を背け、布団を頭から被った。
 勢いで薄衣の布団から足がにゅっと出て、悠理は慌てて冷たくなった両足を胸元に引き寄せた。背を丸め、まるで団子虫のような恰好になったが、それでも恐怖は去らなかった。
 夏だというのに、布団の中にこもる空気は冷たい。どきどきと脈打つ鼓動が、閉ざされた空間の中で空気を震わせている。
 とにかく、寝るっきゃない。そんで、早く朝になってくれるよう、神様仏様に祈るんだ。
 お経を頭に浮かべようとしたが、うまくいかなかった。形にならない──するすると、言葉が悠理の手から逃れてゆく。
 脳裏に浮かぶのは、ぼんやりとした灯りの中に浮かぶ赤い塊ばかりで──悠理は足を引っ張られるようにして、深い闇の中に沈んでいった。
 ──臭い。
 生臭いにおい。魚が腐ったような。淀んだ水の臭いが、底の方で悶えている。
 空から降ってくる月明かりよりも頼りない灯火が一つ瞬き、それに照らし出される、今にも剥がれ落ちそうな古ぼけた壁が目に入ってきた。
 筵のようにささくれた畳。時折流れてくる蚊遣りの煙が、明かりの中で溶けるように消えてゆく。古ぼけた行灯、鼻を覆いたくなる魚油の臭い。その隣に小さな針山がある。
 少しずつ、目が慣れてきた。
 狭い長屋の一室だった。一番安い棟割り長屋と言われる裏店で、三方を壁に囲まれている。出入り口の腰高障子は、きちんと心張り棒で戸締まりがしてあったが、ゆるやかな風が入ってくるところを見ると、いくつか穴が空いているようだった。
 何度も水に潜らせたと思われるくたびれた白い浴衣が、痩せた小さな身体を包んでいる。女らしい丸みなどまるで見あたらないが、それでも後れ毛がはりついたうなじが、手折られた小菊を思わせるほどに華奢で、若い娘の独り住まいだと分かった。
 行灯の光にかざすようにして、ひび割れた手が針を動かしていた。赤い小さな布が瞬く間に形になる。赤い紐が口に通されて、結んだ先を鋏で整えて──袋になった。
 娘は端を摘んで形を整えてからできあがった袋を膝の上に置き、傍らにあった白い包み紙を取り上げ、押し戴くようにしてから袋に収めた。口をきゅっと縛り、掌に包み込む。そして口元に持ってゆき、祈るように呟いた。
「神様──どうぞ、仙太さんをお守りください」




 あの人の身に、大事が起こりませんように。
 怪我などしませんように。
 そして……あの人の夢が叶いますように。
 どうぞどうぞ、お守り下さい。
 仙太が笑う。
 娘が恥じらいながら差し出したお守り袋を受け取って、困ったように笑う。
 娘と、掌の上に交互に向けられる視線。真意を測りかねるというように。
 それでもお守り袋をぎゅっと握りしめて、ぺこんと頭を下げた。
「ありがとうよ」
 その言葉の中には、迷惑そうな響きは見あたらなかった。
 娘はほっと胸をなで下ろし、できるだけ朗らかな口調で言った。
「お店の人と一緒におとつい、八幡さまに行ってきたの。そのついでに、と思って」
 店の人と一緒に──というのは嘘ではなかった。一人で深川にある富岡八幡宮に行く勇気がなくて、無理を言ってついてきて貰ったのだ。
 仙太のために──八幡さまから、お守りを戴くために。
 しかし、正直な話はできなかった。言えば、きっと仙太は迷惑に思うだろう。別に仙太の思い人というわけでもなし──娘の一方的な片思いだったのだから。
「仙太さんのお仕事って、怪我が多いって聞いたから」
 娘は仙太の口元を見つめながら、付け加えた。
「ああ──まあ……そういやそうだな」
 仙太は初めて気づいたというように、ちらりと後ろの両国橋を見やりながらぼそりと呟いた。
 娘が勤める一膳飯屋は仙太の仕事場の近くにある。仙太は時折、兄貴と慕う男に連れられて店に夕餉を食べに来ていたのだ。仙太が仕事を教わっているという男は、格子縞の木綿の下に紺色の腹掛けを身につけていたが、右側の首もとから無惨な火傷の痕が覗いていた。
 ちろりを持ってゆくときなど、それが目の端に入ってくるたび、仙太が同じような傷を負ったら──と思う。仙太は暑がりなのか店に入るといつも着物を脱いでしまう。汗の浮いた背中は、思わず目のやりどころに困るくらい引き締まったいい身体をしていた。娘が恥じ入ってしまうほどきれいな肌をしていて、もしもそこに火傷の痕があったりしたら──きっと娘は耐えられなくなって泣き出してしまうだろう。
 それを守るためなら、深川まで行くなど大したことではない。
 あたしを今まで守ってくれて──そして仙太さんと巡り合わせてくれた八幡さまに、仙太さんも守ってもらうために。
「でも、わざわざお守り袋も作ってくれたんだろう? すまねえな」
 ううん、と娘は首を振った。そして、仙太の手の中にあるお守り袋の古びた生地が目に入って、あまりにみっともない褪せ具合が恥ずかしくなり、「ごめんなさい、そんな安っぽい布しかなくって」と小さい声で詫びた。
「いや、構わねえよ」
 仙太はもう一度、にこりと笑った。
「おけいちゃんの気持ちがこもってるもんな。大事にするよ。ありがとう」
 仙太さんがあたしの名前を覚えていてくれた──
 それだけで、おけいには十分だった。
 冷たいものが落ちてくる。あたいの顔の上に。
 ううん──冷たいけれど、でも、本当は温かいものが。
 じんわりと、心の中を温めてくれる。春のお陽さまのように、ぽかぽかと温めてくれる。
 それでも、叶わなかった思いに気づいて、心の中にぽっかりと穴が空いた。ほてった身体が急速に冷たくなってくる──感覚がなくなってしまうくらいに。
 しくしく。
 しくしくしく。
 誰かが泣いてる。悲しくて苦しくて、伸ばした手を掴んでくれる人も誰もいなくて、淋しくて。
 丸く縮めた身体。足も手もどこも細くて、娘らしいふくよかさなど微塵もない肩を震わせて泣いている。嗚咽ばかりが続き、両の目から流れる涙は手を濡らし足を濡らし、着物を濡らし──とうとう水たまりを作っている。
 誰?
 泣いてるのは誰?
 おけいちゃん? 仙太への思いが届かなくて泣いてるの?
 声をかけると嗚咽が止まった。顔を隠している腕が、膝から落ちた。娘が顔を上げる。
 こちらをまっすぐに見つめる大きな瞳。悲しみに満ちた。




 ああ──
 泣いてるのはあたいだ。
 誰か助けて、と泣いている──






 悠理は目を覚ました。薄衣の布団ごしに、まばゆい朝の光が差し込んでる。
 朝が来た──夜が去って、お天道様が無事に顔を出した。
 それでも、悠理は布団の中で丸まって泣き続けた。声を殺して、肩を震わせて。
 女中が、清四郎が来たと呼びに来るまで。 

 

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