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蒲田は東海道筋にあり、梅で有名な地域である。
 元は街道沿いで薬種問屋を営んでいたいくつかの店が、薬を売る目的で梅園を構えるようになった。何百という梅の木が2月になると梅のさわやかな香りを辺りに漂わし、紅白の梅の競演は江戸からわざわざ観賞にやってくるほどの人気であった。東海道を通る旅人や川崎大師参りの人々だけでなく、参勤交代の大名も足を止めるという。
「季節外れなのが残念ですね」
 利平が二人の後ろをひょこひょこと歩きながら呟く。
「そうですね。次は是非、2月に来たいものです」
 清四郎は利平に答え、徐々に暑さを増してくる頭上の太陽を、笠の庇を持ち上げて見やった。
 今日も暑い一日になりそうである。乾いた地に刻まれる影が濃い。汚れても構わないよう木綿の単を着てきたが、その下はすでに汗ばんでいる。できることなら、明け6ツ(午前6時頃)前には出立したかったが、悠理からお守り袋を返してもらうのに手間取ってしまった。
 品川宿に入った頃には、すでに正午が近かった。街道筋の茶店で昼餉をとり、再び歩き始めて、ようやく蒲田が目前に近づいている。
「なあ、清四郎」
 江戸を出立して、黙々と清四郎の横を歩いていた魅録が声をかけてきた。
「悠理が夢で見たって娘は、今度の件には関わりはないと思うか?」
「ない……とはいえないでしょうね」
 魅録に言われるまでもなく、清四郎も道々考えていたことだった。だから、返事は歯切れが悪くなる。それに気づいたのか、魅録が再び問うた。
「もしも関わりがあるとすれば、その娘はすでに死んでるってことにならないか?」
「それはどうでしょう」
 今朝、清四郎の訪れに寝間着姿でやってきた悠理の顔には、涙のあとがあった。よく幽霊に取り憑かれたときのような憔悴ではなく、胸の痛みに苦しんでいる──そんな哀しみが見えた。
 悠理が見たという夢の内容を聞き、合点がいった。仙太に思いを寄せていたおけいという娘の、恋心を伝えられないもどかしさがあのお守り袋には籠もっている。そこには、負の念というものが感じられない。
 もしおけいという娘が亡くなっているとして、現世に思いが残っているのなら、お守り袋を通じて悠理に何らかの働きかけがあるのではないだろうか。
「悠理にとり憑いているのは、仙太で間違いないと思います。もし、おけいという娘が亡くなっているとしても、それが仙太の死と関わりがあるのかないのか──それは、今の段階では分かりませんから」
「それでもなあ……関係がないなら、どうして悠理が夢なんか見るんだ?」
「さあ、それは僕にも分かりません」
 清四郎は肩をすくめてみせた。それは、悠理に尋ねてもきっと答えは見つからないだろう。
「ともかく、仙太の両親に会って話を聞くしかありませんね」
 西に向かって伸びる、東海道の長い道を見霽かしながら呟く。魅録もまた笠の陰から、おぼろに見えてきた蒲田の町並みに目を細めていた。 
 仙太の実家は、東海道筋で小さな茶店を営んでいる。「梅見月」という幟が風にはためき、一息入れようと足を止める旅人の姿も見えた。
「すみません」
 清四郎は中に入り、お茶を運んでいる娘に声をかけた。
「ご主人はいらっしゃいますか?」
「はい。あ……あの、どちらさまですか?」
 愛想良く答えた娘は、清四郎の後ろに続く魅録と利平に目をやって、当惑気味に尋ねる。清四郎は名を名乗り、魅録と利平の身分を明かして──といっても、魅録についてはさる旗本の子息としか言わなかったが──仙太の知り合いだと付け加えた。
 仙太の名に娘は覚えがなかったようだったが、それでも奥に消えて主人を呼んできた。
 50がらみの主人は、鬢を綺麗に整えた、こざっぱりとした出で立ちで現れた。陽によく焼けた肌には皺が深く刻まれていたが、茶屋の主人にしては背丈も大きい。その背に隠れるようにして清四郎たちに戸惑いの目を向けている女は、おそらく仙太の母親だろう。痩せてはいるが、若い頃は衆目を集める美人であったと思われるほど整った顔立ちで、それだけに白いものが交じった髪だけが妙に老けて見える。
「仙太のお知り合いだそうで……」
 主人は清四郎の顔色を窺うように上目遣いで言い、腰掛けに座るよう勧めた。お内儀が仙太の母親だと言い、お茶を出しにきた娘を厳しい顔ですぐに追い払ってしまった。
「町方の親分さんもご一緒とは、一体どのようなご用事で?」
 主人の当惑もよく分かる。裏長屋で塩売りをやって生きてきた仙太と、どう見ても身分の高い清四郎と魅録が、仙太と友人とは思えないだろう。そして、江戸の町を取り締まる定町廻り同心の手下が一緒にいるのだ。仙太がなにか事件を起こしたのではないか──そんな悪い予感に襲われているのだろう。
「息子さんが江戸で何をされていたのか、それが知りたくてお伺いしました」
 直裁に、仙太の死を伝えるのははばかられた。
「塩売りをしてるとは、聞いておりますが」
 主人は眉をひそめ、ちらりと女房を振り返る。その目には、困惑が見えた。
「それは存じております。その前は、一体何を?」
「日雇いのようなものをしていると、手紙で知らせて来ましたが……」
「日雇い?」
 清四郎は首を傾げた。悠理の見た夢によると、仙太は両国橋の近くで、「兄貴」と呼ぶ男について仕事を教わっていたはずだ。日雇いとは、言葉通りその日限りの仕事で、口入れ屋から仕事をもらう。主に荷物の揚げ下ろしや道の整備などで、ほとんどが力仕事。「兄貴」と慕う人物がいたとは思えない。
「手紙ってことは、仙太は故郷には戻ってないのか?」
 魅録が鋭い声で尋ねた。主人は怯えたような目で魅録を見、
「はあ……江戸に出てから一度も、戻ってはおりません」
 そうだよなと、隣の女房に確かめるようにうなずきかけた。
「わたしは、戻ってきなさいと何度も手紙を出しているんですが、5年前に江戸に行ったきりで……」
 ぽつりと呟く女房のうつむきがちの目は、息子に対する懸念の色に溢れている。清四郎は仙太の母親の目の前に、悠理から返してもらったお守り袋を差し出した。
「では、これに見覚えもありませんか?」
「……いいえ」
 女房はすぐに、きっぱりと首を横に振った。
「おけい、という名には? 仙太さんからの手紙に書いてはありませんでしたか?」
「おけい?」
 二人は揃って首を傾げた。
「いえ……初めて聞く名です。その人は、仙太の知り合いですか?」
「おそらく」
 それ以上のことは、何も分からない。仙太とおけいがわりない仲になったのかならなかったのか、それは今の清四郎には断じかねた。
 清四郎は魅録と顔を見合わせた。やはり、仙太が川から落ちて亡くなったと伝えるしかない。
「実は……」
「仙太は一体何をしたんですか?」
 清四郎の言葉を奪い取るようにして、主人が意を決したように口を開いた。腰掛けから身を乗り出し、清四郎に噛みつかんばかりの勢いである。
「わざわざ江戸から町方の親分さんが、こんな田舎まで来られたんだ。あいつが、お上の手を煩わすようなことをしでかしたんでしょう? はっきり言ってくださいよ」
「いや、そういうわけじゃねえんだ」
 利平が慌てて間に入った。主人の肩に手をおき、落ち着けと言葉を添える。主人は怯えた目で利平を見返し、口をつぐんだ。
「さっき言われた、おけいって女と関わりがあるんですか」
 間髪入れず、女房も震えた声で尋ねてきた。主人の袂をひしと掴み、清四郎をじっと見つめている。
「いえ、そういうわけではありません。仙太さんが悪事に関わっているわけではなくて」
「じゃあ、一体どういうことで?」
 再び、主人が問うた。目の色が変わっている。 
「清四郎、こうなりゃはっきり言っちまえよ」
「魅録」
「どうせ、知らせなきゃならねえことだろ」
「それはそうですけどね」清四郎は顔をしかめた。ここまでやって来たのだから、仙太の死を知らせなくてはならないのは確かだが、息子の死を伝える役目などできれば避けたかった。
 ちらりと隣に腰掛けた魅録を窺ったが、清四郎が伝えて当然とばかりの顔つきである。利平は二人のお供と割り切っているのか、差し出口は挟まないし──悲しいかな、事実を伝えるのは自分の役目のようである。
「仕方ありませんね」
 清四郎は呟いて、主人に向き合った。
 自分に向けられた視線は迷いなどまったく見えぬほどまっすぐで、それだけに責任の重さを感じてしまう。
 それでも、伝えなくては何も先に進まず、悠理に取り憑いた仙太の霊を助けることはできない。
「実は──仙太さんは先月お亡くなりになりました」
「……は」
 主人は呆けたような声を出した。
「両国の川開きの夜──川に落ちて」
「川に……」
 どすん、と音を立てて主人は腰掛けにお尻を落とした。女房の顔は、懸念顔のまま凍りついてしまっている。時が止まったかのように、茶屋に吹き込んでくる風までもがやんだ。
「事故か……それとも誰かの手にかかったのか……自ら川に飛び込んだのか、まだ分かってはいません。それを調べるために、こちらに伺ったのですが」
 できるだけ淡々と告げた。私情を挟まず、事実を述べるだけに。それでも、夫婦が受けた衝撃の大きさは清四郎にまで伝わってきた。
 女房はふらりと立ち上がった。どこか一点を見つめたまま、無言で店の奥に消えてゆく。慌てて、娘がかけよってきたのが見えた。
 だが、主人は女房の後を追いかけもしない。目の前に突きつけられた事実を、自らの中に取り込もうと、思い詰めた表情で、じっと自分の膝の上に握りしめた拳を見つめている。
「利平、お前がいってやれ」
 魅録が命じた。利平はうなずいて、店の奥に入っていった。
 清四郎はその背を見送って、改めて主人と向き合った。
 床に落とした主人の視線をすくい上げるように、身をかがめて、俯けたその顔をひたと見つめる。
「仙太さんが、深川で塩売りをしていたところまでは分かりました。5年前に蒲田から江戸に出てきたことも。ですが、塩売りを始めたのは一年ほど前のことだそうで、その前はいったい何をして生活していたのかが分からないんです」
「………」
「僕たちの知人が、仙太さんが川に落ちるところを目撃しました──それを、気に病んでいるんです。どうして助けられなかったのか、と」
 ぴくり、と主人の肩が動いた。
「仙太さんは、財布の中にそのお守り袋を入れていました。先程尋ねた、おけいという娘が渡したもののようです」
 清四郎はもう一度、お守り袋を差し出した。
 主人はのろのろと顔を上げ、震える手を伸ばしてそれを受け取った。
 ゆっくりと、いたわるようにお守り袋を撫でる。ごわついた布の感触を確かめるように。まるで──仙太の手をさするように。
「仙太は……」
 ぽつりと言葉がこぼれ落ちた。口は開いたが、先が続かない。
 清四郎はあいづちを打って先を促した。主人はお守り袋を握りしめ──清四郎の手を取って、掌の上に載せた。主人の、清四郎を見返す目には、もう迷いは見えない。
「さっき、両国の川開きの夜に、仙太は川に落ちたといいなすったね」
「ええ。大川で花火が打ち上げられている最中に」
 ふう、と主人は大きなため息をついた。心の中にたまった鬱屈を、すべてはき出すかのように。そして、袖でぐいと顔をなで上げ、ちらりと女房が消えたのれんの奥を窺う。
 ぎらつく太陽の下、風がぱたりと止んだ。鳥の鳴き声さえ聞こえず、奇妙な静寂が茶屋を包む。
「なら……あいつは、自分で川に落ちたんだろうよ」
「自分で?」
 まさか、仙太の父親から答えを聞かされるとは思わなかった。清四郎は魅録と顔を見合わせ、疲れ果てたかのように背を丸めた主人をもう一度見た。
「仙太から、何か聞いてるのか?」
 魅録が身を乗り出して訊く。だが、主人は首を振った。
「いえ……そういうわけじゃありませんが」
「では……」
「あいつは、花火職人になるために江戸に出ていったんです」
「花火職人?」
 清四郎は問い返した。だが──その瞬間に、仙太の思いに気づいた。
「そうか……」
 清四郎は呟いた。掌に載せられたお守り袋。それが、真実を示していたではないか。
 おけいという娘が働いていた場所──確か、悠理の話では柳橋の近く。仙太が「兄貴」と慕う男は、火傷の痕があったという。仙太が深川に住みだしたのは1年ほど前──お辰が花火見物に誘っても断ってきたという事実。
 そして、悠理に取り憑いた仙太は火を怖がっていた……
 清四郎はゆっくりとうなずいた。ようやく、事件の形が見えてきた。 
「仙太さんは、花火屋で働いていたんですね。一昨年、火を出して江戸処払いになった、両国の玉屋さんで」
 主人は大きなため息をついて、重々しくうなずいた。


 

 

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