豪華な八百善の料理は、瞬く間に悠理の口の中に消えていった。 久々に見る、悠理の豪快な食べっぷりである。その席に呼ばれた美童、可憐、野梨子の三人は、いつもの悠理が戻ってきたと素直に喜んでいた。 「あ〜喰った喰った」 悠理はだらしなく両足を畳に投げ出して、お腹をさすっている。包帯の取れた足の裏には、まだ火傷の痕が残っていたが、医者の話では完璧とまではいかないまでも、目立たなくなるらしい。 「悠理、元気になったようですわね」 「そうね。あの子に取り憑いた霊も、もう成仏したのかもしれないわね」 野梨子と可憐はひそひそと言い合った。 「清四郎と魅録は、無駄足になったかもしれないね」 美童は、座敷の隅で空席となっている二つの膳をちらりと見やって言った。帰りは夜になると言っていたが、それでも悠理が二人の分まで用意をさせたのだった。 「木戸が閉まるまでに、間に合うのかしら?」 「遅くなるようだったら、駕籠を使って戻ってくると思うよ」 「まあ、戻れなくても、残った料理は、悠理がきっと全部食べると思いますわ」 三人はくすくすと笑いあった。 「なあなあ、みんな何笑ってるんだよ?」 悠理が膳をどけて寄ってきた。目を輝かせて顔を寄せてくるその姿は、昨日までの、元気のなさが嘘のようである。 「悠理が元に戻ってよかったと、話していたのですわ」 「身体は大丈夫?」 「ばっちしだじょ」 悠理は何故か偉そうに胸を張ってみせた。 「もう、何も感じないの?」 可憐が尋ねると、悠理は不思議そうに首を傾げた。包帯を取ったと同時にいつもの元気が湧いてきて、昨日までの自分とは違うと分かってはいる。だが、仙太が成仏したかと言われると、定かではなかった。 「う〜ん、よく分かんない。昨日見た夢のせいかも……」 「夢?」 「うん。昨日、清四郎が仙太のお守り袋を持ってきたんだ」 悠理は昨日見た夢の話をした。おけいという娘のことも。悠理ほどではないが、霊感がわずかでもある三人は、ぶるっと身震いをしてこわごわと悠理を見返してきた。 「その話を聞いて、清四郎はなんて言ったのさ」 「なんにも」 「何も?」 「そうですか、としか言わなかったじょ」 「清四郎らしくありませんわね。何も言わなかったなんて」 野梨子が呟く。その横で、可憐がうんうんとうなずいた。 「その、おけいって娘は仙太の死に関係あるのかな」 「それは美童、やっぱりあるんじゃない? なかったら、悠理の夢に出てきたりはしないでしょ」 「そうかなあ」 「清四郎が蒲田から戻ってきたら、何もかも明らかになるのじゃありません? 何かひっかかることがあったから、仙太さんの故郷まで行ったのでしょうし」 「そうよねえ……うーん、あたしにはさっぱり分からないわ」 可憐は小さくため息をついて、開け放してある庭に目を向けた。縁側からわずかに蚊遣りの煙が流れてきてはいるが、星空のまばゆい夜の空が、夜の帳に包まれた庭木の上に広がっている。 そのとき、どーん、という腹に響くような重い音が聞こえてきた。 「始まったようだがや」 悠理の父、万作が立ち上がって空を見上げる。 「今夜は、兼六屋さんの花火でしたわね」 母の百合子が目を細めて、その隣に立った。 5月18日の両国川開きの花火は、大川沿いの水茶屋が金を出し合って、花火を打ち上げる。そして、その日から8月28日までの納涼中、三度打ち上げられる大花火以外の日は、江戸に住む誰もが花火を揚げられることになっている。必要な金は一分。それだけ払うと、大川に浮かぶ花火船に、好きな花火を一つ打ち上げて貰えるのだった。 「小父様、小母様、兼六屋さんの花火は見えます?」 野梨子が尋ねる。万作は振り返って、首を振った。 「いんや。音はするが、なんも見えん」 「やはり、鍵屋さんだけでは淋しいですわね。花火の腕も、玉屋さんのほうが上でしたし……兼六屋さんも、どうせ花火をあげるなら、もっとぱあっと派手なものを打ち上げればよろしいのに」 そう言う百合子の顔は、どことなく優越感に溢れている。 「うちがあげるときは、母ちゃん。もっと豪勢にするだがや。川開きの花火にも負けんぐらいの」 「そうですわね。あなた、兼六屋には負けていられませんわ。剣菱屋の名に恥じない花火を作らせましょう」 兼六屋は、剣菱屋と並ぶほどの豪商で、同じ日本橋に呉服問屋を開いている。商売敵ゆえに、なにかと剣菱屋と兼六屋は張り合っている。花火一つとっても、負けてはいられないという覚悟はあっぱれという他はない。確かに剣菱屋の財力を持ってすれば、川開きの花火以上のものを揚げることなど、いともたやすくやってのけるだろう。 「小父様、そのときは是非あたし達も呼んでくださいね」 「勿論だがや、可憐ちゃん」 万作は胸をどんと叩いて請け負った。 その時、だった。 「……なにか、こう……焦げ臭い匂いがしませんこと?」 野梨子が袖で鼻を覆いながら尋ねた。 「え?」 可憐は眉をひそめて鼻をひくつかせた。野梨子は、背後にある唐紙に目を向けている。その向こうは長い廊下があって、万作や百合子の座敷や台所などに続いている。 「そういえば……悠理、あんたは?」 振り向いた可憐の顔色が変わった。悠理は血の気が失せた顔をしている。腰が抜けたようにぺたんと畳に座り込み、隣にいる美童の袖を掴んで、がたがたと震えていた。 「悠理、どうしたんだよ?」 支えるようにその肩に手をやって、美童が尋ねる。だが、悠理は首を振るだけで答えない。 「火事……じゃありませんこと?」 野梨子の声も震えている。万作と百合子が顔を見合わせた。 「まさか? 僕が見てこよう」 兄の豊作が立ち上がった。唐紙を開け、鼻をうごめかせながら廊下を進んでいく。しばらくして戻ってくると、しきりに首を傾げながら言った。 「別に臭いもしないし……台所も別になんともありませんでしたよ」 「あなたたちの気のせいじゃないかしら。兼六屋さんの花火の臭いが、風に乗ってきたのじゃない?」 百合子が心配そうに悠理を見やる。 「母ちゃん、火の始末には十分気をつけるよう、店のもんには言ってあるだがや」 「そうですわねえ。五代も目を光らせてますし」 「いいえ。花火の臭いじゃありませんわ」 きっぱりと、野梨子は否定した。何度も川開きの花火には行っている。物が焼ける臭いと火薬の臭いと、違いは歴然。第一、今日は風もあまりなく、両国橋近くで上がる花火の臭いが、ここ日本橋まで届くはずがないのだ。 「剣菱屋じゃなくても……どこかが──」 呟くように話す、野梨子の声が悲鳴にかわった。 野梨子の目の前で、何かに怯えるように震えている悠理の身体から、突然炎が上がった。 「悠理!」 手妻の如く、湧き上がった紅蓮の炎。 熱風に揺らめいて、天に昇ってゆく──天井までも覆い尽くし、ばりばりと音を立てて掴みとる。唐紙も、今まで座っていた畳も、八百善の膳も、床の間に生けられた花も、業火に包まれて。 真紅の龍が頭をもたげ、大きな口で悠理の身体を飲み込み──灼熱の炎に包まれたその姿が、野梨子の前から忽然と消えた。 |