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清四郎と魅録そして利平の一行は、とっぷりと日が暮れてからようやく江戸の町に入った。
 京橋を渡り、彼らの目の前に見えてきた通町の町並みは、すっかり夜のとばりに包まれている。先程、時の鐘が5つ(午後8時頃)を知らせたが、提灯を手に大通りを行きかう人々の姿は引きも切らない。
「剣菱屋に行くのか」
 手ぬぐいで、着物についた砂塵を落としながら魅録が尋ねた。辻行灯に照らされるその顔は、汗と埃にまみれている。
「ええ。悠理は、僕たちの分も八百善の料理を用意して待っていると言ってましたし」
 そう答える清四郎の横顔は、魅録と同じ道を歩いたというのにいつもと変わらぬ涼しげな面持ちである。
「やっぱり、遅くなっちまったな。帰りが遅いとか言って、俺たちの分は、悠理が全部食べてしまってるんじゃないか」
「かもしれませんな」
 清四郎はくすりと忍び笑いを浮かべる。そして、後ろに控えた利平を振り返り、
「利平さん、今日はご苦労さまでした。堀田さんには僕の方から今日のことは話しに行きます」
 懐紙に包んだ小粒を渡すと、利平はぺこりと頭を下げて道を別れていった。
「それで……これからどうするんだ?」
 再び、日本橋にある剣菱屋に向かいながら魅録が言った。
「そうですねえ……」と呟きながら、清四郎は眉を潜めたまま、懐に入れてある仙太のお守り袋を取り出して見つめる。
 おけいという娘が働いていた一膳飯屋が玉屋と同じ吉川町にあったのなら、4月 16日のあの晩、玉屋が出した火に巻かれて亡くなった可能性がある。火が出たのは4つ(午後10時頃)近く、仕事を終えて自分の家に戻っていたのなら、火事を免れたかもしれないが──もしそうだとしたら、おけいは仙太の無事を確かめようとしただろう。
 火事から逃れた人々は、皆で近くの寺に避難するのだから、玉屋の奉公人を捜すのは難しくなかったはずだ。
 しかし、仙太とおけいが再び会った様子はない。なにしろ、花火職人をやめて日雇いになり、塩売りとして深川で暮らしていた仙太は、亡くなるときもおけいから貰ったお守り袋を身につけていたのだから。
 やはり、おけいは火事で亡くなったのだろう。それも、仙太が勤める玉屋の出火で。
 何が原因で、玉屋が火を出したかは分からない。仕事柄、火の始末には十分注意していただろうが、火薬や焔硝など、火花一つで引火してしまう材料が山とあるのだから、誰の責任かなど決めることもできない。
 それだからこそ、仙太はおけいを死なせてしまったことで、2年もの間自らを責め続けのではないだろうか。
 おけいのお守り袋を前にして、ふくれあがるばかりの罪悪感。おけいの思いを知るからこそ捨てることもできず、その身に抱え込んでしまった重荷に耐えられなくなってしまったのだろう。
 時が続く限り、毎年やってくる江戸の夏。玉屋の火事の後、花火を避けるようにして生きてきたはずだったのに、今年の川開きの夜は違った。
 夏の始まりを告げるお祭り騒ぎのような一夜。大川に隙間なく浮かぶ納涼船。轟音を伴って夜空に咲く花火。花火を見つめる江戸の人々の、威勢のいいかけ声。
 衆目を集める花火船は鍵屋のもの。二年前までは、玉屋のものもあったのに。
 花火作りの腕は、老舗鍵屋よりも、そこからのれん分けした玉屋のほうが上であっただけに、玉屋を突然襲った悲劇を鮮明に思い出して、仙太は絶望感に襲われたのだろう。
 そうして、一瞬の光芒ののち藍色の闇に消えゆく花火に誘われるかのように、一つ目橋の欄干を越えてしまったのだ。
 花火が輝く夏の夜空ではなく、昏く静かな──ねっとりと身体に絡みつく大川の水の中に。
 霊感などまったくない清四郎にも、このお守り袋を通して仙太の思いが伝わってくるような気がする。深いため息をついて、呟いた。 
「仙太を成仏させるためには、心残りが何かを知らなくてはいけないでしょうな」
「そうだな」
 魅録もため息混じりに、星が瞬く夜空を見上げる。
「花火職人なる夢が絶たれたんだからなあ……なあ、清四郎、こういうのはどうだ? 悠理に取り憑いた仙太に表に出てきてもらってだな、花火を作らせるってのは」 
「鍵屋にどう事情を話すのですか。いくら剣菱屋が金を積んだとしても、それは絶対に無理ですよ」
 清四郎は苦い笑いを浮かべた。
「やっぱり無理か」
「花火作りの道具を前にすれば、仙太はでてくるかもしれませんが……第一、仙太が玉屋にいたのは4年ほどですよ。していた仕事など、せいぜい雑用係がいいところですな。到底、花火作りなど無理でしょう」
「なら……お前ならどうする?」
 魅録の、清四郎を見据える双眸が鋭く光る。清四郎はその挑戦的な視線を平然と受けて、ふむとうなずいた。
「とりあえず、このお守り袋を悠理に預けてみようと思います。仙太の心残りが、おけいという娘を助けられなかったことだとしたら……なにか反応があると思うんですがね」
「それはそうかもしれんが、悠理のやつ、また、怖い夢を見るから嫌だって言うんじゃないのか」
「我が儘言ったって関係ありませんよ。なにしろ、仙太に取り憑かれたままで困るのは、悠理本人ですから」
 すまし顔で答える清四郎に、魅録は渋面を作って呟く。
「冷たい野郎だな、まったく」
「そうですか? 悠理のためにわざわざ蒲田まで行って、我ながらなんて友達思いなんだと感心しているんですがね。しかし、魅録がどうしても心配だというなら、一晩中悠理の傍についていましょうか。それぐらいなら簡単ですし」
 確かに、清四郎が傍についているなら悠理も承知するかもしれない。自信満々に言ってのけた清四郎に、魅録は鼻にしわをよせて「へえへえ」と肩をすくめてみせた。
 その、悠理の元へ到着するのはまもなくである。目の前に見えた日本橋を渡って、三つ目の角を左に曲がれば、町一つまるまる占める剣菱屋の、仰々しい金看板がすぐに見えるだろう。
 通町と呼ばれる東海道を抜けて日本橋を渡りかけたところで、清四郎はふと足を止めた。
「どうした?」
 先に行きかけた魅録が振り向いて声をかけてくる。清四郎は黒く闇に沈んだ日本橋川に、怪訝そうな視線を向けて言った。
「何か、聞こえませんか」
「聞こえるって……一体何が」
 魅録も清四郎の元に戻って耳をすませた。日本橋川は霊岸島のあたりで大川に合流する。静かにたゆたう水面を渡るようにして、どーんという低いうねりのようなものが、かすかに聞こえて来た。
「……聞こえるな」
「あれは、花火の音では?」
「今日は天気もいいからな。どこかの商家が、花火を揚げてるのかもしれないな」
 とたんに、清四郎の顔色が変わった。辻行灯のほのかな明かりの元でも、それと分かるほどに。
「魅録──急いで剣菱屋に戻りますよ!」
 言うなり、清四郎は裾をからげて駈けだした。手にした行灯が大きく揺れて、足に当たっても気にも留めなかった。
「おい!」
 魅録が追ってくる。二人の足音が、夜の日本橋に響き渡る。
 嫌な予感がした。
 悠理の中に眠る仙太の霊が、花火の音に誘われて表に出てくるかもしれない。
 おけいの姿を求めて。助けられなかった大事な娘を、此度こそは救うために。 
 間に合わないかも知れない──「剣菱屋」と金文字を彫り抜いた看板を目にしても、焦りはつのるばかりだった。
「開けてください! 早く──!」
 清四郎は息も荒く、剣菱屋の潜り戸を乱暴に叩いた。 

「清四郎! 魅録!」
 座敷に駆け込んできた二人を目にして、可憐が悲鳴に近い声を上げた。
「可憐、悠理はどうした?」
 魅録がすぐに可憐の元に駆け寄る。ぺたりと畳に座り込み、可憐は蒼白な顔でがたがたと震えていた。
「清四郎! 悠理が変なんだよ!」
 その隣で、美童がひっくり返った声で言った。
「やはり……!」
 清四郎は唇を噛んだ。恐れていたことが起きてしまった。間に合わなかった──
 見ると、悠理の両親は縁側に近いところで二人、抱き合うようにして茫然と突っ立っている。兄豊作は、廊下に尻餅をつくような恰好で固まっていた。美童と可憐は何故か部屋の隅で震えているし、野梨子は血の気を失った顔で、悠理を見つめていた。
 その悠理は──座敷の中央で、傀儡師(くぐつし)に見捨てられた木偶人形のように、畳の上にへたり込み、ぱたりと両手を垂れ、頭は力なく俯いている。
「悠理!」
 清四郎は名を呼んだ。駆け寄って、その崩れ落ちそうな身体を支えてやりたかったが、なにか見えない力に押し戻されたかのように、ただ声を限りに呼ぶしかできなかった。
 悠理はぴくりとも動かなかった。体中の力だけでなく、五感が──いや意識までもが失われたかのように、反応一つみせない。悠理がどんな表情をしているのか、ばさりとかかった髪に隠されて、清四郎には何も見えなかった。それが余計に不安を募らせる。
「野梨子、一体何が起こったんですか!」
 厳しい声を叩きつけると、野梨子は小さく痙攣した。
 恐る恐る顔を上げて──その視線の先に清四郎の姿を認めると、かすかな悲鳴を上げた。喉の奥で凍りついていたものが、ようやく溶けて口の外に出てきたかのように。
「せ、清四郎──」
「悠理はどうしたんですか?」
「火……火が、突然あがって」
「火?」
 清四郎は眉を潜めて辺りを見回した。どこにも、野梨子の言う火などない。小火でさえも見あたらず、鼻をひくつかせてみたが物が燃える臭いさえない。
「何を言っているんですか」
「清四郎、あんたには見えないの?」
 野梨子の肩を掴んだところで、後ろの可憐が金切り声をあげた。恐怖に凍りついたその顔を、魅録が心配そうに覗き込む。
「可憐、火なんてどこにもないぜ」 
「嘘! 見えるでしょうが!」
「いや、俺には見えねえ」
 もう一度、きっぱりと魅録が否定すると、ようやく可憐は息を一つ吐き出して、魅録を見返した。
「野梨子がきな臭いって言い出して……びっくりしてたら、この座敷の中に火があがって。あたし、逃げだそうとしたんだけど……足が動かなくって、それで──」
 そう半べそで訴えかける可憐は、魅録に縋りついていないと今にも崩れ落ちそうだった。
「清四郎……こいつは一体」
 魅録はしっかりと可憐の身体を抱きかかえたまま、清四郎に鋭い視線を向ける。
 清四郎は、ちらりと悠理の両親に目を向けた。部屋に入ってきてより、一度も口を開かない。時が止まったかのように、人形のごとき動きのまったくないうつろな目を見開いているだけだ。
 そして、悠理もまた、座敷の中心でぴくりとも動かない。それを一瞥して、清四郎は美童を振り返った。
「お前はどうです」
「ぼ、僕には……二人の言うような火なんて見えないけど……でも、さっきからずっと、なんだか寒気がして」
 自分の身を抱きかかえるように、美童はぶるっと身震いをした。
「……清四郎」
 清四郎の腕の中で、野梨子が震える声で呟いた。
「悠理が……突然火に包まれたんですの」
「火に包まれた?」
 慌てて悠理を見やると、火はおろか、ほんのわずかでも火によって燃えた様子はなかった。髪も、悠理の陽に焼けた肌も。極上の着物も、なにもかも。
「わたくし、悠理を助けようとしたんですのよ! でも、身体が何かに縛られたかのように動けなかったんですの!」
 野梨子は自らを責めるかのように激しい口調で言うと、いやいやをするようにかぶりを振り、恐る恐る面をあげた。悠理に目を向け、再び顔が強ばる。息を飲むような悲鳴をあげて、震える指先を悠理に向けた。
「ほら、また炎が……真っ赤な炎が悠理を包んで!」
「野梨子、それは幻ですよ!」
「いいえ! そんな、そんなこと……! ああ、また炎が! 清四郎、早く、早く悠理を助けてあげてくださいな!」
 腕に縋りつき、見上げる野梨子の瞳は死にものぐるいの必死さに大きく見開かれていた。その額に浮かぶ汗は、偽りなどではない。悠理に襲いかかる炎は、野梨子のいるこの座敷すべてを灼熱地獄に変えているのだろう。たとえ、清四郎の目には何も見えなくとも。
 清四郎は唇を引き結び、野梨子にうなずきかけると、そっと腕にかかったその手を外して立ち上がった。
 どうやって、悠理を助けるか。
 清四郎は懐から、おけいが仙太に渡したお守り袋を取り出した。
 これが、仙太の残留思念が作り出した炎だとしたら。
 きっと、おけいのお守り袋が、悠理の元へ導いてくれるだろう。悠理の魂の元へ。2年前、玉屋が燃えた4月16日の夜へ。
 お守り袋を握りしめる。畳をしっかと踏みしめながら悠理に近づく。
 一歩進むごとに、見えない壁が自らを押し戻そうとしているのが分かった。
 そして、ぷつっと、額に汗が浮いた。その玉はつるりと頬を伝い、渇いた畳の上にしたたり落ちる。
 暑い。
 灼熱の太陽に手を伸ばしていくかのように、熱い。
 熱い。熱い──身が焦げる。じりじりと、産毛までもが焦げてゆくのが分かる。
「清四郎!」
 野梨子の悲鳴が聞こえた。
 悠理を包む炎に、自らの身が飲まれたのが分かった。身体の内側に、目に見えぬ火焔が侵入してきた。
 もうすぐ、悠理に手が届く。仙太の思念に囚われた悠理を取り戻すことができる。
「悠理──」
 喉から零れた言葉までもが燃えてゆく。もう、何も見えない。空虚な空間に、悠理だけがぽかりと浮いている。



 悠理、きっと僕が、助けてあげます──



 清四郎は心の中で強く念じて、悠理の腕をぎゅっと掴んだ。


 

 

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