悠理の身体がぐいと宙に浮いた。 どんどん濃くなってゆく黒煙と、白い灰が舞い散る天空が目に入る。 どすんと地面に尻餅をついて、悠理はぎゃっとうめき声を上げた。 「な、なにすんだ!」 振り向くと、顔を煤で汚した若い男が悠理の上半身を抱き留めて、大きな息をついていた。 「あんた、死ぬつもりかい? 火元に突っ込んでいくなんざ、正気の沙汰とは思えねえぜ」 「余計なお世話だ!」 悠理は男を突き飛ばすようにして立ち上がった。ふんと頭を持ち上げて、玉屋のあった方に向けたとたん、目の前に繰り広げられる火焔地獄に頭がくらりと回り、腰を抜かしてしまった。 その尻を、男は地面に座ったまま、また受け止めて顔をしかめる。 「だから言わんこっちゃねえ」 咎めるような呟き声に、悠理は我に返った。 「な、なんであたい、こんなところにいるんだろ?」 一体何故、さかんに火が燃えさかる火元にまで来てしまったのかさっぱり分からなかった。 誰かに操られていた気もする。霊に憑かれたときのように、すべての自由が失われて。 それでもようやく、四肢と自分の意志が自由になったのだけは分かった。 「知るか、そんなこと。それよりも、早く逃げねえと危ねえぜ」 男は吐き捨てるように言って、悠理の身体を支えて立ち上がる。よろよろと砕けそうになる両足に力を籠めながら、悠理は自分を助けてくれた男の横顔を振り返った。 「あ!」 思わず驚きが声になった。 「おまえ──仙太!」 昨夜見た夢に出てきた男そっくりだった。おけいが、「仙太さん」と呼んだ男に間違いない。 しかし、悠理は自分の目では見たことがない。生きていたときの顔も、大川に落ちたあとの死に顔も。 これは夢かまぼろしか。 「なんだ? あんた、俺の名前を知ってるのか」 「え、いや──」悠理は曖昧に首を振った。 なんでこの男がここにいるのか分からない。仙太は死んだはず。大川の川開きの夜、川に落ちて。あたいがこの目で見たんだから間違いない。 なのにあたいはこんなところにいる──ここに至って、ようやく悠理の頭でも理解できた。 「あ、そっか……」 ここは仙太の意識の中。あたいは、こいつの中にある火事の記憶を、今、追体験させられているんだ。 そう気づいたとたん、目の前にいる命の恩人が無性に憎くなって、ぎりっと睨めつけた。睨みつけるだけじゃ飽き足らない──こいつを殴って蹴り上げて、もうあたいに取り憑いたりしないよう痛めつけてやらなきゃ気がすまない。 「おまえな! 早く、あたいの身体から出て行けよ!」 仙太に掴みかかったとたん、悠理の隣で、燃え残っていた玉屋の柱が轟音を立てて崩れ落ちた。益々火が勢いを増し、火の粉が舞う。記憶の中に存在する火の怖さは、たとえ幻影であっても悠理を怯えさせるに十分だった。 「危ねえ!」 仰け反った悠理の上に、仙太の身体が覆い被さってきた。二人は地に倒れ落ちた。渇いた地から、いくつもの振動が伝わってくる。火が地を駆け抜ける音。逃げまどう人々の足音。延焼を防ぐために、火消したちが手にした鳶口で町に並ぶ家を壊してゆく音。 身体に感じるあまりの恐ろしさに茫然としていると、仙太がすぐに立ち上がり、悠理を再び抱き起こして言った。 「早く、日本橋の方に逃げろ。柳橋を渡ってもかまわねえ」 「おまえはどうすんだ?」 「俺は……助けなきゃいけない娘(こ)がいるんだ」 そう呟く仙太の顔は、激しく燃える火に照らされているにもかかわらず、決死の覚悟で青ざめていた。 「それ、おけいちゃんのことか?」 反射的にその名が出た。 「おめえ、おけいちゃんの知り合いかい?」 いいや──と言いかけて、悠理はなにかに導かれるかのように、うんと大きくうなずいていた。 「おけいちゃんは、今夜も店にいるんだな?」 悠理の問いに、仙太はうなずくだけで駈けだした。その背をすぐに追う。 「あたいも行く!」 このまま、仙太を行かせていいわけがない。この悪夢から醒めるためには、仙太の力がいる。どうやればいいのかさっぱり分からないが──悠理の勘が、おけいを助けろとさかんに叫んでいた。 仙太は振り返りもせずに、吉川町のはずれに向かって駈けている。格子縞の単までもが、さかんに踊り狂う火に照らされて、赤く染まっている。ひらりひらり、と揺れる袖までもが、炎と見まがうほどに。 吉川町はすでに猛火に飲まれていた。自らが生み出した風に煽られて、渦を巻くように空に地に延びている。ここも、あそこも──町にずらりと並んでいたはずの立派な店々が、いままさに、真っ赤な火の中で黒く虚ろな廃墟に変わりつつある。 「──おけいちゃん!」 突然、仙太は足を止めて叫んだ。 目の前には、今まさに火に包まれようとしている飯屋があった。店先に掛けてあっただろう暖簾も、入り口障子も格子窓も灰となり、建物の屋根からも火が噴き出し始めている。 「おけいちゃんの店ってここか!」 尋ねる間もなく、仙太は火の中に飛び込んでいこうとした。慌てて、悠理はその身体に飛びついて止めた。 「待てよ!」 「何しやがんだ!」 仙太は怒号とともに悠理の手の中で暴れたが、しっかとしがみついて放さなかった。 「ばかやろっ! このまま飛び込んでいったって、おけいちゃんを助けられるわけないじゃんか!」 「じゃあ、どうすんだ!」 このままむやみに火の中に入ったとて、おけいを助けるどころかこっちが火に巻かれておだぶつになるに違いない。 悠理は周囲を見回した。吉川町はどこも火に包まれていたが、風の加減か、通りの向こうは常と変わらない静かな夜の闇に沈み込んでいる。 「そこで待ってろ」 仙太に言い聞かせるように囁いて、悠理は吉川町の向かい側に走っていった。 江戸の町には、火の用心のために設置された天水桶があり、その中にはいつも水が満たされている。大戸を閉ざした商家の隅にそれを見つけると、悠理は上に積んであった桶を取り上げ、水を汲んでざんぶと身体にぶっかけた。二度、三度と身体全体にかけたあと、二つの桶に水を汲んで仙太のもとに戻り、唖然としているその顔に浴びせかけた。 仙太は泡をくったような声を上げる。悠理は構わず残りの水をかけ、空になった桶をがらりと投げ捨てた。 濡れ鼠の仙太は、何が起きたのか把握してない風の呆けた顔を悠理に向けている。その腕をぐいと掴み、 「ほら、ぼけっとしてんな。いいか、おけいちゃんを助けに行くじょ!」 「おっ……おう」 仙太ははっと我に返ってうなずいた。 悠理はすぅと息を吸い込んで、水に濡れた袂を口に当てて火の中に突入した。 吹きつけてくる熱風がすごくて、目が開けられないほどだった。柱が燃え、店に据えられていた飯台が焦げ、天井にまで火が延びて轟音が耳朶を震わす。 「おけいちゃん、どこだ!」 仙太が口に当てていた手ぬぐいを離して叫んだ。 「おけいちゃん!」 悠理も声をかぎりに叫ぶ。だが、応えはない。がらがらと、どこかが崩れる音がするだけだ。 仙太は声もなく店の奥に進んだ。はしご段があったが、その手すりまでもが火に包まれている。そして、左手には調理場らしき部屋があった。入り口にかかっていたと思われる暖簾の残骸がわずかにぶら下がり、柱がぶすぶすと音を立てていた。 「おけいちゃん……?」 覗き込むようにして、こわごわと声をかける。ばちばちと燃える音に混じって、かすかな声が聞こえた。 「おい、仙太!」 悠理は仙太の背をこづいた。確かに、人の声が聞こえた。 「おけいちゃん、大丈夫かい!?」 仙太は身を伸ばすようにして、目を凝らした。 調理場の中は器が散乱し、据え付けられた調理台が燃え始めていた。奥の方には店の裏に抜けると思われる戸があったが、隙間から黒い煙が上がっているところを見ると、裏手もすでに火に包まれているようだ。 「おけいちゃん?」 もう一度、仙太は声をかけた。 床に転がった器の上にわだかまっていた影が、びくんと反応した。 影が大きくなる。ゆらりと、天井に延びるようにして。 そして── 影は「せ、仙太さん?」と震える声で答えた。 「おけいちゃん! そこにいるんだな?」 「仙太さん! お願い、助けて!」 そこここで吹き上がる火に照らされたのは、悠理にも見覚えのあるおけいの顔だった。唇を震えさせ、青ざめた顔で仙太の姿を認めると、立ち上がって助けを求めてきた。 「無事だったんだな? 待ってろ、今助けに行くからな。そのまま、しゃがんで待ってろよ」 うん、とおけいはうなずいて床にうずくまった。こんこんと咳き込んではいるが、まだ下の方までは煙は充満していない。 仙太は悠理を見やり、大きく一つうなずいた。 悠理はうなずき返しておいて、背後を振り返った。火に囲まれた入り口にぽっかりと空いた穴から、いやに穏やかな暗い闇夜が見える。 大丈夫、まだ退路を断たれてはいない。 「まってろよ──」 仙太が助けの手を伸ばして一歩を進めたとたん。 世界を震え上がらせるような大音響が起きて、一挙に目の前の柱が崩れ落ちてきた。 「危ない!」 悠理は仙太の襟首をむんずと掴んで、後ろに引き倒した。 火の粉が舞う。灰が躍る。 おけいの悲鳴が、轟音の中に混じる。 「……!」 音がやんだと見ると悠理は間髪入れず顔を上げた。仙太とおけいを隔てる調理場の天井が崩れて、二人の目の前に大きな障害となっているのが見えた。しかも、ただの瓦礫ではない。さかんに火を吹き上げ、その力は調理場の奥で震えているおけいにむかって伸びていこうとしている。 「ちくしょう!」 仙太が吠えた。拳を握りしめ、地に叩きつける。 「どうすりゃいいんだ……」 「諦めんなよ、ばかやろう!」 うなだれたその頭を、悠理は腹立たしく蹴り上げた。 「なにしやんがんだっ!」 「おまえが諦めたら、おけいちゃんは誰が助けんだよ? おまえ、あの娘を助けるためにここまで来たんだろ? そんなに大事に思っている女の命を、こうも簡単に諦めていいのかよっ」 腑抜けになった仙太の顔を、もう一つ張り倒す。悠理の力を籠めた平手打ちを、仙太はなすすべもなく受け止めた。 「おまえ! おけいちゃんを助けられなかったのがつらくて心残りだったから、あたいに取り憑いたんだろ? それだけ、悔しく思っていたんだろ? なあ……あたいをこんなところまで連れてきたのは、おけいちゃんを今度こそは助けたかったからだろ? 違うかよ!」 「………」 仙太は唇を噛みしめたまま、悠理を睨みつけている。 悠理は仙太の衿を掴んだまま、じっと助けを待っているおけいを振り返った。 おけいと悠理の間には、盛んに燃えさかる炎の壁がある。その壁越しに透けて見えるおけいの顔は、仙太に──あるいは悠理に──対するただひたすらな、信頼の色が見えた。 「ほら、立てよ! おけいちゃんは、おまえを信じてああやって待っているじゃんか! 男なら、絶対途中で諦めんな。こんな火がなんだよ。ここまであたいと来たんだ、なんとかなるって、絶対!」 根拠はなかった──それでも、ここでおけいの救出を諦めてしまったら、きっとあたいは仙太の中に取り込まれたまま、みんなのいる世界に戻れなくなる。 こんな炎なんかまぼろしだ。熱くて熱くて……目を開けているのも口を開くのもつらいけれど、でも絶対にまぼろしだ。本物じゃない。きっと通り抜けられる。おけいちゃんを助けることができる。 「……分かった」 仙太はうなずいた。 「あたいも一緒に行くからな、心配すんな」 悠理もうなずいた。 そして、二人で手を握りあい、目の前に揺れ続ける火焔の壁に向かって突入した。
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「おけいちゃん……もうすぐだからな」 息が苦しい。体中から汗が噴き出す。 「仙太さん……」 壁の向こう側で、おけいが手を差し出してくる。一心に、命乞いをするかのように必死の表情で。 「苦しいだろうけど、がんばれよ」 仙太も手を差し出した。まだ、手が届くには遠い。 また一歩。十重二十重に揺らめく炎が、執拗に二人の身体を苛む。 髪が燃える。着物が燃える。肌がただれてゆく。喉の奥までもが熱い。 それでも、歩みは止められない。 もうちょっと。もう少しで手が届く。 「まってろよ……」 悠理も手を伸ばした。互いの指が触れあうまで、あと一息。 「仙太さん……がんばって」
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「悠理……がんばってください」 おけいの姿に、清四郎の姿が重なった。悠理に向かって、求めるかのように手を伸ばして。 清四郎……もうちょっと。もうちょっとで、おまえに手が届く。 |
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じり、と足下が音をたてる。かき分けるようにして進む、猛火の八重垣。少しずつ、それでも確実に前に進む。 目の前の、紅が徐々に薄まってゆく。出口が近い。おけいの顔が、はっきりと見える。 触れあう、二人の指先。 「おけいちゃん、無事で……よかった」 仙太が呟いた。 「仙太さんが無事でよかった」 おけいが応えた。
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壁を抜けた。すぽんと、垣根に開いた穴をくぐり抜けるようにして。 唐突に、熱気が去ってゆく。燃えたはずの着物も、髪も、肌もなにもかも、元に戻って。 悪夢から──ようやく逃れられた。 「清四郎!」 そのまま二人の手を絡み合わせて、悠理は待ち受けていた清四郎に身体の中に、しっかりと抱き留められた。
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