~2~ 薬の即効性を思い出したのは、しばらく経ってからだった。
身体の内側が、じんじんと熱くなってきた。 「ん・・・」 熱さに耐え切れず、口から悩ましげな吐息が漏れた。 駄目だ。彼より先に、薬の効果が表われたら、計画が台無しになってしまう。 悠理は蕩ける内腿を隠すように、足を摺り合わせた。
「具合でも悪いのですか?」 そう言う清四郎の声も、どこか熱い。 悠理の腕に、清四郎の手が添えられる。 二の腕から手首まで、大きな掌が滑るように移動していく。 「ううん・・・大丈夫・・・」 言葉とは裏腹に、悠理の心臓は、激しく打ち鳴っていた。 「身体が熱いですよ・・・本当に、具合が悪いんじゃないですか?」 彼の手が、逆に腕を滑り、肩を撫で上げた。 情欲の篭った、男の指。 それが、悠理を限界に追い込んだ。
「気持ち、悪い・・・」 振り返りながら、清四郎に抱きつく。 首に腕を回すと、清四郎は一瞬だけ動きを止めた。 薬が効いているだろうに、それでも悠理に手を出さないのは、理性のせいか。 しかし、彼の荒い息が、男の限界が近いことを教えてくれていた。
悠理は彼の太腿に身を乗り上げ、甘い息を吐いた。 そのまま、己のくちびるを、清四郎のくちびるに押し当てる。
一瞬だけ、拒絶されるのでは、と、不安が過ぎった。 しかし、悠理からの接吻は、すぐに彼からの蹂躙に変わった。
悠理の口腔内で、清四郎の舌が暴れ回る。 彼の欲望が、蠢く舌の動きからも感じ取れる。 苦しいほどに舌を絡め取られ、脳髄が蕩けていく。
気がつけば、彼の手が服の隙間から忍び込んでいた。 いきなり胸の突端を抓まれても、甘い痺れしか感じない。 はじめてなのに、身体はもっと男を欲している。
もっと、もっと、清四郎が、欲しい。
悠理は彼の髪を掻き乱しながら、存分に男の舌を味わった。
長い接吻のあと、ようやく彼のくちびるが離れる。 「悠理・・・紅茶に何を入れたのですか?」 そう言いながらも、清四郎の手は悠理の素肌を弄っている。 「・・・猿の手・・・」 悠理は快感に擦れた声で呟くと、清四郎のシャツに手をかけた。 ボタンをみっつ開けたところで、彼の胸に手を這わす。 彼がどれだけ興奮しているかは、硬く膨らんだ突端が物語っていた。 それを玩びながら、吐息混じりに囁く。 「・・・猿の手は、何でも願いを叶えてくれる・・・」 清四郎は、女の愛撫に呻きながらも、くすりと余裕の笑みを漏らした。 「これが、悠理の望みですか。」 そう言いながらも、息は荒く、眼には情欲の炎が燃え上がっている。 「ならば、こちらも思う存分、楽しませていただきましょうか。」 清四郎はそう言うと、緩んだ悠理の足の間に、手を差し入れた。
それが、たとえ薬のせいだとしても。
悠理の歪んだ望みだとしても。
清四郎を手に入れられるなら、それで構わなかった。
猿の手。
猿の手。
お願いだから、清四郎を、あたいにください。
偽りでも構わないから、愛して欲しいなんて贅沢は言わないから。
彼を、ください。
**********
悠理が処女を喪失したのは、床の上だった。 しかも、大した前戯もなく、倒れた椅子の横で、いきなり突き入れられた。 それでも、薬のせいか、痛みはほとんど感じなかった。 もしかしたら薬効ではなく、清四郎を思うあまり、痛覚が麻痺していただけかもしれない。 ただ、ただ、身体が清四郎を欲していた。
場所をベッドに移してからも、清四郎は悠理の身体を激しく貪った。 それは、睦み合う、という表現とは、まったく異なっていた。 単に、欲望を満たすためだけ。快楽を追うだけで、愛情など介在しなかった。 薬の効果が消えるまで、獣のような情交は続いた。
悠理はシャワーを浴びながら、声を殺して泣いていた。 身体じゅうに散った鬱血。手首に残る赤い痣。軋んで悲鳴を上げる下肢の関節。 清四郎の行為に、思いやりは、一切なかった。 自分が望んだこととはいえ、愛情の欠片もない情事を思い出すと、涙が次から次へと溢れてきて、泣き止みたく ても、涙が止まらなかった。
泣きながらペンダントを握り締めて、心の中で問う。 所詮は薬を使って身体を繋いだだけ。それで、本当に彼が手に入れられるのか。 手に入れたとしても―― それは、先ほどの行為と同じ、愛のないものではないか。 愛がなくても良い、彼が自分のものになるなら、それで構わないと望んだのは、自分だ。 だけど、それがこんなに苦しいなんて、清四郎と交わる前には、思いもしなかった。
耐え切れない嗚咽がくちびるから漏れ、悠理はその場に屈み込んだ。
何とか泣き止んでバスルームを出ると、清四郎は下半身にバスタオルを巻きつけた状態のまま、ベッドの端に 腰掛けていた。 乱れた黒髪。剥き出しの腕には、悠理が爪を立てた痕が傷となって残っている。 情交後の気だるい色香が漂うその姿に、否応なしに胸が高鳴る。 ドアの音に気づいた清四郎が、ゆっくりと顔を上げた。 彼の瞳に浮かぶ後悔を見たくなくて、悠理は慌てて俯いた。 「悠理・・・こちらへ来てください。」 それでも立ち止まったままでいると、もう一度、同じことを言われた。 おずおずと傍に寄って、少し離れた位置で、立ち止まる。 顔を上げる勇気は、ない。 「もっと近づいて。ちゃんと僕の顔を見てください。」 もう一歩、傍に寄る。すると、腕を摑まれて、ぐいと引き寄せられた。 バランスを崩した腰を、清四郎の手が支える。 間近で顔を覗き込まれ、悠理はまた泣きそうになった。 「やっ・・・」 背けようとした顔を、両手で摑まれ、無理矢理に振り向かされる。 至近距離で合った彼の眼には、表現し難い複雑な翳りが浮かんでいた。
「・・・ずっと泣いていたのですか?眼が真っ赤になって腫れていますよ。」 ふたたび浮かんできた涙を、清四郎の指が拭う。 「泣くくらいなら、どうして紅茶に催淫剤など仕込んだのですか?どういう結果になるかくらい、貴女にも理解でき たでしょうに。」 「・・・だって・・・だって・・・」 涙のせいで、言い訳すらできない悠理を見て、清四郎は困ったように溜息を吐いた。 「悠理のことだから、どうせ興味本位だったのでしょう?」 しばらくの、沈黙。 悠理の嗚咽だけが、広い部屋に響く。 優しく諭されると、余計に罪悪感が湧く。 声を荒げて詰られたほうが、まだマシだった。 「・・・すみませんでした。」 謝罪の言葉が、断絶を告げているように聞こえた。
激しく嗚咽する悠理を、清四郎がそっと抱きしめる。 濡れた髪を優しく撫でられ、余計に涙が溢れてきた。 「こんなに痣をつけられて、痛かったでしょう?薬のせいで理性を失っていたとはいえ、酷い真似をして、本当に すまないと思っています。」 頬を伝う涙を、清四郎のくちびるが拭う。 驚いて上げた顔に、キスの雨が降ってきた。 穏やかな黒い瞳に、悠理が映っている。そのまま吸い込まれてしまいそうだ。 その眼に心を奪われている間に、悠理はそっとベッドに横たえられた。 「・・・今度から、優しくすると誓いますから、許してください。」 今度から、という言葉の意味を尋ねる前に、くちびるを塞がれた。
言葉どおり、今度の清四郎は、とても優しかった。
優しい営みの最中、悠理の胸元で、ペンダントがかちゃかちゃ音を立てていた。 悠理はそれを遠くで聞きながら、幸福な悦びに身を委ねていた。
猿の手は、悠理の願いを叶えてくれた。
清四郎が欲しいという、ひとつめの願いを。
**********
それから、悠理と清四郎は、たびたび身体を重ねるようになった。 家人の留守中、清四郎の部屋で。勉強と称して、悠理の部屋で。 秘密の逢瀬だったけれど、悠理は幸せだった。 清四郎はとても優しかったし、仲間には決して見せない、甘えた仕草も、悠理には見せてくれたから。 だけど、愛の言葉だけは、いくら身体を重ねようが、囁いてはくれなかった。 当然だ。 悠理は、清四郎が欲しい、とだけペンダントに願った。 薬まで盛って関係を結んだのだから、申し訳なくて、心までは願えなかった。 だから、今の関係で満足すべきだと、自分に言い聞かせていた。
なのに、眠りにつくと必ず、あの男が夢に現れ、悠理を苛めた。
―― 好きな男に抱かれて眠る気分はどうだい?幸せだろう?
―― 彼も君のことを気に入っているよ。
―― ただし、気に入っているのは君とのセックスであって、君自身じゃない。
―― ほらほら、もっと頑張って彼を満足させないと、すぐに彼は君に飽きてしまうよ。
―― だって・・・彼は、君を愛していないから。
目覚めたとき、悠理の身体は寝汗にびっしょり濡れていた。 ひとりきりの部屋。隅の暗がりに、あの男が潜んでいそうな気がして、無性に怖い。 怖くて、怖くて、ここにはいない清四郎の名を、心の中で呼ぶ。 今頃、彼は自室のベッドで深い眠りについているはず。いくら呼んでも、来てくれるはずがなかった。 それでも悠理は、シーツの中で身体を丸め、必死に清四郎の名を呼び続けた。
清四郎は、悠理を愛していない。 ただ、悠理とのセックスが気に入っているだけ。
黒衣の男の囁きが、耳から離れない。
分かっている。分かっている。 でも、それを認めたら、清四郎が消えてしまいそうで、怖かった。
「清四郎・・・清四郎・・・」 彼が目の前から消えてしまわぬように、悠理は必死にその名を呟き続けた。
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