〜3〜 腕の中で眠る悠理の額に、清四郎はそっとくちびるを押し当てた。 今の彼女は、まるで庇護者の懐に眠る幼い子供のよう。 悦楽に耽る姿とは対照的な、無垢な寝顔だ。 けれど、どちらの悠理も、清四郎の心を捕らえて放さなかった。
薬を盛られて関係を結んだとき、正直、怒りも湧いたし、後悔もした。 どうにか悠理を言いくるめて、なかったことにしようとまで考えていた。 なのに―― 苦しげに泣きじゃくる彼女を見ていたら、そんな気持ちは、どこかへ消えていた。 とにかく、彼女を慰めたくて、涙を止めてやりたくて、細い身体を抱きしめた。 どうすれば彼女の心を癒せるのか分からないまま、結局、ふたたび身体を結んだ。 自分が欲望のままに刻んだ愛撫の痕を、ひとつひとつ、優しく追った。 快感に頬を染める悠理の姿に、胸の奥が甘く疼いた。 その疼きは、今も、つづいている。
そのときは、どうしてふたたび悠理を抱いたのか、説明がつかなかった。 でも、今なら、説明がつく。
本当は、あのまま関係を終わらせるべきだった。 後先など考えぬ悠理のこと。催淫剤とて、興味本位で使ったに違いなかった。 今の関係を続けているのも、覚えたてのセックスに夢中なだけだろう。 それを利用して、悠理の身体を貪る自分が、酷く汚らしい存在に思えた。
悠理は、清四郎に何も言わない。 清四郎をどう想っているのか、この関係をどう感じているのか。 これからどうしたいかも、言おうとしない。 時折、申し訳なさそうに清四郎を見つめるだけだ。 快楽を得るためだけの関係には、感情も、未来も、必要はない。 だから、悠理は何も語らず、友情関係を壊してしまったことに罪悪感を抱いて、申し訳なさそうに清四郎を 見つめているのだ。 それが、悠理の答なのだと思い、清四郎も、あえて何も言おうとはしなかった。
腕の中で、悠理が身じろぎする。 清四郎の胸に頬を寄せると、ふたたび安らかな寝息をたてる。 その白い背にそっと手を回して、清四郎も、瞼を閉じた。 胸が甘く疼くのを、感じながら。
「たまには二人で出かけませんか?」 清四郎の突然の申し出に、悠理は耳を疑った。 「出かけるって、いつ?どこに?」 「今からでも構いませんよ。街を散策して、お茶でも飲みましょう。」 金曜の放課後である。倶楽部の面子は、まだ現れていない。 いつもなら、生徒会室で仲間たちとダラダラ時間を過ごしたあと、悠理の部屋に直行する。 もちろん勉強もセットになっているが、それでも清四郎と朝まで過ごせる週末は、悠理にとって特別な日だった。 「もちろん悠理が嫌なら無理強いはしませんよ。」 清四郎は新聞をばさりと捲り、また株価が下がりましたね、と脈絡のない言葉を呟いた。 嫌なはずはない。清四郎と二人で出かけるなんて、飛び上がるくらい嬉しい。でも―― 「嫌じゃないけど、それって・・・」 デートみたいだ。 その言葉は、すんでのところで呑み込んだ。
清四郎は、悠理を何とも思っていないのに、デートという言葉を使うのは、間違っている。 単なる気分転換。もしくは、思いつき。 二人で出かけるからといって、単純に喜んではいけない。 喜んで、あとで哀しくなるのは悠理本人なのだから。
猿の手に望んだのは、今の関係。 心まで欲しがったら、清四郎に申し訳ない。
悠理はくいと顔を上げ、にっこり笑った。 「いいよ。実はさ、前から行きたい店があったんだ。清四郎、付き合ってくれる?」 「ええ。では、行きますか。」 そう言って顔を上げた清四郎は、普段と同じ、穏やかな笑みを浮かべていた。
生徒会室を出た途端、仲間たちと出くわした。しかも、四人揃っている。 何となくバツが悪いのは、後ろめたい秘密を抱えているからだ。 「お二人とも、もうお帰りですの?」 野梨子が日本人形のような顔を傾げて言う。 「もしかして、今からデートじゃないの?」 可憐が色気たっぷりに身をくねらせながら、二人をからかう。 「ちが・・・」 「違いますよ。今から悠理の参考書選びです。」 うろたえる悠理を余所に、清四郎がはっきりと言い放った。 瞬間、悠理の胸を、鋭い痛みが貫いた。
浮かれてはいけないと分かっていながら、やはり浮かれていた。 清四郎は、悠理のことなんて、何とも思ってはいないのに。
「最近さ、清四郎って、悠理の面倒ばかり見ているよね。家庭教師にしちゃ、面倒見が良すぎない?」 美童の鋭い指摘も、清四郎はさらりとかわす。 「僕が勉強を見ていたのに、悠理だけが卒業できなかったら、末代までの恥ですからね。」 「泊り込みで勉強って、いったい何の勉強をしているのかなあ?」 美童の視線が、清四郎の顔から逸れ、悠理の腰のあたりに注がれる。悠理は思わず清四郎の背中に隠れ、 意味深な視線から逃れた。 「純然かつ健全な勉強ですよ。何なら美童の面倒も見ましょうか?」 「ついでに可憐も一緒に教えて貰ったらどうだ?」 魅録の言葉を聞いて、可憐は、冗談じゃないわ、と本気で嫌がって憤慨した。 その様子に、悠理は馬鹿みたいに大笑いしてみた。 清四郎が平然と嘘が吐ける理由を考えたら、笑うしかなかった。 悠理に特別な感情を抱いていないからこそ、顔色ひとつ変えずに嘘が吐けるのだ。 笑っていないと、涙が零れそうだった。
並んで去っていく二人の後姿を眺めながら、美童はぽつりと呟いた。 「なんか、複雑そう・・・」 「あん?何か言ったか?」 魅録が扉を開けながら振り返る。美童は微笑みながら首を左右に振った。 「魅録には関係のないこと。あまり、気にしないで。」 今のところは、ね。 最後の言葉は声に出さず、心の中だけで呟いた。
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明るい空の下、好きなひとと一緒に、あちこちの店を覗くだけで、天にも舞い上がりそうなくらい幸福な気分に なれるなんて、悠理はそれまで知らなかった。 だって、二人でいるのは、ベッドの中だけだったから。 清四郎は、悠理がセレクトした微妙な小物の数々に、顔を顰めたり、大袈裟に呆れたり、声を立てて笑ったりした。 「少し疲れましたね。お茶でも飲んで休みましょう。」 彼がそう言って、悠理の手を取って歩き出したときは、心臓がどきどきして、繋いだ手から心音が伝わらないかと、 心配になった。 手を繋いで街を歩くなんて、夢みたいだった。 不思議なことに、裸体を重ねているときよりも恥ずかしくて、頬が火照って仕方なかった。 悠理は彼の後姿を眼で追いながら、雲の上を行くように、ふわふわとした足取りで歩いた。
テーブルの向こう側で、清四郎がこちらを見ながら微笑んでいる。 恥ずかしくて、眼を合わせられないため、悠理はケーキを平らげることに専念していた。 「ついてますよ。」 「へっ?」 清四郎が、頬を指している。 悠理は慌ててフォークを置き、自分の頬を探った。 「違います。そっちじゃない。」 にゅっと手が伸びてきて、悠理の頬を拭った。 長い指に生クリームがついている。 清四郎は、何の躊躇いもなく、指についたクリームを舐め取った。
彼の何気ない動作に、悠理は眩暈を起こして倒れそうになった。 「やはり甘いですね。」 そう言って笑う彼の表情は、生クリームよりもずっと甘かった。
まるで、本当の恋人同士になったような錯覚。 でも、それは、あくまで錯覚だ。 清四郎の心は、悠理にはない。 でも。 もっともっと、何気ない時間を、清四郎と共有したい。 今のような、優しい時間を。
欲しい。
欲しい。
欲しい。
清四郎の、心が、欲しい。
悠理は無意識のうちにペンダントを握り締めていた。
カフェテラスの大きな窓の向こう側に、黒衣の男の幻を見た気がした。
「・・・清四郎には、好きなひと、いないの?」 真新しい問題集に視線を落としたまま、ごくさり気なく、清四郎に尋ねてみた。 でも、もしかしたら、緊張のあまり声が震えていたのに気づかれたかもしれない。 「そういう悠理こそ、好意を寄せる異性はいないのですか?」 「あたいのことは、別にいいじゃん。」 「聞くだけ聞いて、自分は黙っているなんて、卑怯ですよ。」 「減るもんじゃあるまいし、教えてくれたっていいじゃん。ケチ。」 「・・・教えたら、悠理が困るだけですよ。」 「なんで?」 顔を上げたら、デコピンが待ち受けていた。 「ほら、雑談する暇があったら、問題を解きなさい。」 問題に集中しようとしたけれど、清四郎の言葉が気になって、いつまで経っても答を導き出せない。
猿の手は、ひとつめの願いを叶えてくれた。 ふたつめの願いは、清四郎の身体だけでなく、心まで手に入れること。 それが叶ったら、他に願うことなんて、ひとつもない。 願いは、ふたつだけで、終わるのだ。
「・・・悠理は、僕以外の男と寝たいと思いますか?」 突然の、予想もしていなかった質問。 悠理は驚いて顔を上げた。 「そんなこと、思うはずない…っ!」 清四郎は、真剣な表情で、悠理を見つめていた。 黒い瞳に、熱い揺らめきが浮かんでいる。 「では、どうして相手に僕を選んだのですか?」 「それは・・・」 言いよどむ悠理の顔に、清四郎の顔が近づく。 キスされるのかと思ったら、彼の顔は横に逸れ、その代わり、そっと抱きしめられた。 「僕なら抱かれてもいいと、そう思ったのですか?」 言葉と一緒に吐息が耳朶にかかり、悠理は身を震わせた。 胸がどきどきして、声が出ない。 「悠理・・・僕と、最初からはじめませんか?」
胸元のペンダントが、生き物のように熱くなる。 「順番は違ってしまったけれど、まだ、間に合いますよね?」 清四郎の囁きが遠い。 その代わり、黒衣の男の声が、脳裏にこだまする。 ほんの少しの良心を捨てて、罪悪感に蓋をすれば、願いは叶う、と。
「―― 僕の恋人になってくれませんか?」
悠理は男の言うとおり、良心を捨てて、罪悪感に蓋をした。
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清四郎から交際を申し込まれた夜、悠理は幸福に包まれて眠っていた。 その幸福には実体がある。清四郎という、とびきりの幸福が、悠理をすっぽり覆っている。 悠理は愛しいひとの身体だけでなく、心までも手に入れたのだ。 もう、何も望むものはないと、そう信じていた。
悠理は真っ暗な闇の中にいた。 闇を見回すと、目の前に、ひときわ黒々とした塊が蹲っていた。 塊が蠢く。 黒い帽子の下から、白い顔が現われた。
―― とうとう彼の心まで手に入れたね。
黒衣の男が囁きかける。
―― これで、願いはふたつ。叶えられる望みは、あとひとつだ。
あとひとつなんか、必要ない。 悠理はずっとずっと欲しかった、ただひとつのものを、手に入れたのだから。
―― あまり浮かれてはいられないよ。君が魔法を使って、彼の心を勝手に捻じ曲げたのがバレたら、 一巻の終わりだからね。
―― 君は、君の欲望を満たすため、彼の人格を無視し、彼の心を蹂躙した。
―― それを彼が知ったら、どう思うだろうねえ?
―― きっと、君は軽蔑されて、嫌われて、彼から捨てられる。
悠理は男に殴りかかった。しかし、振るった拳は、空を切った。 男は笑いながら、次々と言葉の刃を振り翳す。
―― 彼の周りには、君より素敵な娘がいっぱいいるからね。君の代わりなんて、いくらでもいるんだよ。
―― 失礼。君の代わりなんて言ったら、彼女たちが怒るね。君は魔法に頼らなければ、彼に見向きもされない 程度の娘なんだから。
―― 君は、魔法に頼らなければ、彼の愛を手に入れられない、貧弱で、面白味もないくせに、自尊心だけは 山より高くて、身勝手な娘なのだから。
「・・・いや・・・聞きたくない・・・聞きたくない!!」 「悠理!悠理っ!?」 眼を開けると、清四郎の顔が間近にあった。 悠理は彼にしがみつき、必死に心を落ち着けようとした。 あれは夢だ。罪の意識が見せた、酷い悪夢なのだ。 なのに、男の声が、鼓膜にこびりついて離れない。 「清四郎・・・あたいのこと、好き?」 「好きですよ。」 「本当に?」 「ええ。」 真っ直ぐな眼差し。とても嘘を言っているようには見えない。 当たり前だ。清四郎は、猿の手の魔法で、悠理を好きだと思い込んでいるのだから。 そう思った瞬間、不安が押し寄せ、胸が圧迫された。
清四郎が悠理に向ける愛情は、本心からのものではないのだ。
逞しい背中に手を回し、力いっぱい抱きつく。 すっかり悠理に馴染んだ肌が、乳房に密着し、自然と快感の吐息が漏れる。 「怖い夢でも見たのですか?」 そう、とても怖い夢だった。でも、それを清四郎に告げるわけにはいかない。 もの言いたげな清四郎のくちびるを塞ぎ、激しく貪りながら、彼の髪を掻き乱した。 狂おしい接吻の最中、僅かな間だけ、くちびるを離す。 「 ・・・滅茶苦茶に、して。 」 悠理は擦れた声で囁くと、ふたたび清四郎のくちびるを貪った。 それを聞いた清四郎は、何故か、苦しげに顔を歪めた。 黒い瞳に、深い翳りが揺らめいている。 「では、夢も見れないくらい、滅茶苦茶にしてあげますよ。」 くちびるが触れ合う距離で、清四郎が囁く。 悠理は自ら足を開き、めくるめく快感の渦に身を委ねた。
しかし、いくら身体を重ねても、不安は大きくなるばかりで、決して消えてくれなかった。
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