BY ルーン様
8:清四郎 あの晩の野梨子の話を、あれからずっと考えている。 僕が魅録を好きなように、悠理のことを好きだ、と彼女は言った。 心の中でその言葉を何回も反芻しては、不快感に襲われる。 もやもやする。 独占欲。 ふと、そんな言葉が浮かぶ。 悠理が、野梨子を好きになったら? そんな疑問が、何をしていても頭に浮かぶ。 僕は魅録のところへ行き、悠理には一人家で僕を待っていて欲しいのだろうか。 そうだとしたら、僕は最低だ。 魅録と、もう別れなければならない時期なのだと思う。 自分の気持ちがどこにあるのか分からないままでは、いられない。 少なくとも今現在、何も手に付かない。 本社ビルに着いて時計を見ると、6時25分。 約束の時間通りだ。 エレベーターで、最上階に上がる。 会長代理室のドアノブに手をかけたところで、部屋から出てきた魅録にぶつかった。 「わっ!」 何もそんなに、驚かなくても。 「どうしたんです?」 見ると、魅録の左頬が赤い。 「どこかにぶつかったんですか?」 ついいつものクセで、僕が頬に触れようとしたら、顔を背けられた。 「なんでもねぇよ」 様子が変だ。 「帰るところだったんですか?」 魅録も、僕と同じことを考えていたのかも知れない。 もう、こんなことは止めるべきだと。 「…今日は、話したいことがあるんだよ。…でも、色々考えて、逃げ出したくなってきた所に、お前さんが帰ってきたんだ」 魅録が、自嘲気味に嗤う。 「ちょうど良かった。僕もですよ。どこか、ゆっくり話せるところに行きましょう」 いつも飲みに行く店は、止めておいた。 そこは魅録のマンションに近く、二人で飲んだ後は必ず魅録のマンションに直行するのが、僕らのいつものコースだった。 酒が入らないと話せない話ではあった。 だけど、いつもの店でいつものように酒を飲んで、自制できるか自信がなかった。 悠理は僕の傍にいて欲しい。 でも、魅録と過ごした夜を、すべて忘れることができる、自信がない。 最低だ、と、また思った。 静かなバーに入り、一番隅のカウンター席に腰掛ける。 魅録はスコッチ、僕はドランブイを注文した。 グラスを持って、真正面を向いたまま、魅録が言った。 「お前から話せよ」 もう、潮時だ。このままでいるのは、崩壊すると分かっている城の中に、ずっと留まり続けるようなもの。 「悠理の様子が、最近変でしてね」 僕は話した。 野梨子の話、美童から聞いた話 ―あれから電話があり、USJで何があったのかを一部始終聞かされた― 。 そして僕自身、そんな悠理を見るのが辛いということ。 「そうか」 魅録は一口、グラスから飲んだ。 「今日、お前がいない間に、和子さんが来たんだ」 「姉貴が?」 驚いた。魅録の頬は、姉貴の仕業か。 では―? 「姉貴に、全部知られているんですね」 なんでまた。 そう思うと、なんだか無性に可笑しくなってきた。 少し、酔ったのかも知れない。 僕が笑うと、魅録も笑った。 子供のいたずらが、バレてしまった時のようだ。 「和子さん、悠理に今日、街で会ったんだと。そこで悠理が和子さんにした相談っていうのが、また突拍子もなくてな」 「なんなんです?」 魅録は言いにくそうに、天井を仰いだ。 「つまり…その。お前の精子と、俺の精子を混ぜて、悠理の卵子に人工授精できないか、って言ったそうだ。そうすれば、清四郎も嫌じゃないし、俺も含めて皆で可愛がれるから、と」 ―それは、姉貴が逆上するのも分かりますな。 自分たちのことなのに、妙に冷静にそんなことを思った。 もし悠理が、他の男にそんな仕打ちをされているとしたら、僕だって黙ってはいないだろう。 「俺はさ、それ聞いたとき、自分にもお前にも腹が立った。なんでこんなことになったんだろう、って、心底思った」 「ああ」 そうだ。こんなことになるなら、僕は悠理と結婚すべきじゃなかった。結婚したなら、魅録と寝るべきじゃ、なかった。 悠理を、ひどくないがしろにしてしまった。ずっと気付かなかったとはいえ。 「俺は、お前に感謝してるよ。一番助けが必要だったとき、お前がいてくれた。…でも、ホントお前ってバカだよな」 バカ、の言葉にムッとした。 「最後が余計ですよ」 「だってホントのことだろ。お前は悠理が、好きなんだろ。自分の気持ちが、分からないなんてバカだよ」 ふん。 「魅録もバカですよ」 「ああ、俺が一番バカかもな」 バカ、と言われたのに、魅録は楽しそうだった。 「なんでそんなに楽しそうなんですか」 僕が尋ねると、魅録は少し、考えてから言った。 「お前が悠理と結婚してから、ずっと俺の中に重くのしかかってたものが、取れたような気がするから」 「魅録はそれで、いいんですか?」 僕は魅録に、顔を向けた。 「いいに決まってるだろ。お前なんか、悠理にのしつけて、くれてやるよ」 魅録は、晴れやかに笑って、僕の背中をバン、と叩いた。 「ほら、もう帰れよ。悠理が待ってるんだろ?」 「魅録は?」 「俺はもうちょっと飲んでから帰るよ。どうせ、ひとりもんだしな」 「魅録、すまない」 「謝んなよ。なんか俺がみじめだろ。ほら、行けって」 悠理のことを思い出した。暗い部屋の中で、今日も僕を待っているのかもしれない。 僕は立ち上がった。 「じゃあ、帰ります」 これきりなのか。魅録と、また会えるだろうか? 「清四郎」 振り返ると、魅録が言った。 「また、会えるだろ?昔みたいに、馬鹿ふざけならできるじゃねえか」 「そうですね、魅録。じゃあ、また」 同じことを考えていたのかと思うと、笑みがこぼれた。 僕は、店を出た。 出て行った後の店で、魅録が泣いているかも知れないと思う僕は、自意識過剰だろうか。 そうであって欲しいのだろうか。 違う。 願うのは、幸福な未来。
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9:悠理 気が付いたら、8時だ。 和子姉ちゃんと別れて、どうやって家に帰ってきたのか、よく憶えていない。 あたし、最近変だ。 シャワーを浴びながら、そんなことを思う。 清四郎はおとついから出張中だし、もう、寝よう。 なんだか疲れた。 明日、あたしは起きれるだろうか。 清四郎がいなくて、あの手がなくて、とても寂しい。 パジャマに着替え、ベッドに横になってしばらくすると、リビングの方で物音がした。 清四郎が、帰ってきたのか。 でも、もしそうじゃなかったら、立ち直れないような気がして、あたしはベッドから動かなかった。清四郎は、明日まで出張だと言っていたのだし。 誰かが、ベッドの方に近づいてきた。 「悠理」 清四郎だ! そう思った途端、心臓が跳ね上がり、涙がとめどなく溢れ出した。 「また、泣いているんですか」 あたしは、目を開けることができなかった。 目を開けて、夢だったらどうしようかと、思った。 清四郎の手が、あたしの頬に触れた。 次々に溢れ出す涙を、指で拭ってくれた。 「悠理。どうしたら許してくれますか?」 あたしは、恐る恐る目を開けた。目の前には、困ったような清四郎の顔があった。 「やっと、目を開けてくれましたね」 清四郎の顔が、ゆっくりと近づいてきた。 あ、すごいアップだ。 思わず目を瞑ったら、まぶたに触れるか触れないかの口付けを落とされた。 次は、唇を塞がれた。 初めての口付けは、甘く、甘く。 だけど同時に、少しほろ苦かった。 夢じゃないか、と、何度もそう思った。 角度を変えて、何度も何度も、優しく口付けられる。 やめて。 そんなことをされたら。 魅録にも、そんな風にしてるの? こうやってあたしに触れた後、魅録にも同じことを? 嫉妬なんて、したくない。 唇が、離れていった。 「悠理。魅録とは、もう別れてきました。もう二度と、あんな関係にはなりません」 え…? 「悠理、あなたを抱きたい」 また、涙が零れた。 心配そうに、清四郎があたしの顔を覗き込んだ。 「駄目、ですか?」 駄目な訳… ずっと閉じ込めていた思いが、堰を切ったように溢れ出す。 清四郎をずっと好きだった。 いつもあたしに触れて欲しかった。 見つめて欲しかった。 でも、言えなかった。 清四郎の優しさが、自分の遠慮が、いつも邪魔をしていて、窮屈だった。 あたしだけを愛して欲しい。 そんなこと、言えなかった。 「もっと早くに、気付けばよかった。悠理、悪かった」 あたしの髪を撫ぜながら、清四郎が言う。 「何に?」 「悠理を、ずっと愛してたことに」 涙で視界が歪む。 「どっちつかずで、お前を傷つけた」 清四郎は、悲しそうに目を伏せた。 「自分の気持ちに気付かないことで、人を傷つけることも、あるんですね」 「ほんとう?」 ほんとうに?やっと言葉が出た。 あたしを愛しているって。あたしを、傷つけたって、思ってくれてるの? 「悠理、許してくれますか?」 答える代わりに、清四郎の腕を力いっぱい引っ張った。 バランスを崩して、清四郎があたしの身体の上に、倒れこむ。 倒れこんだ清四郎に、あたしから口付けた。 清四郎の頬に、あたしの涙が移って、清四郎が泣いているみたいに見えた。 涙は、きらきらと光っていた。
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